21世紀に生きる俺たちは

私はリアルタイム(?)で、司馬遼太郎の「21世紀に生きる君たちへ」を読んだ世代である。国語の教科書に載っていたことを覚えており、読んだ”記憶”がある。悲しいのは、どういった内容だったのか覚えていないことだ。

「21世紀に生きる君たちへ」で検索すると、PDFで本文がすぐ出てくる

読み直したのだが、かすかに読んだ痕跡を自分の内部に見いだせるのは

私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。

この箇所だけが、印象にかろうじて残っている。

政治家が何をしているのか未だに知らない

「政治家」の存在は小学校に入るころくらいには、存在はしっていた「政治家」と呼ばれている偉いおじさん(たまにおばさん)がいる…、だが、彼らが具体的に何をしているのかは、つい最近まで知らなかった。立法は、てっきり「エラい弁護士」「重役クラスの弁護士」の仕事かと思っていた。

教科書に文章が載ってる人も、そんな風にして「なんとなくエラい人たち」くらいの認識だったのを覚えている。

司馬遼太郎の文章を読み返して思うのが、まるで遺言だということだ。見ず知らずの人から遺言を託されたら、内容がどうあれ「遺言を託された」記憶だけは残るだろう。

同時に、内容の平凡さにも気付く。書いてあるのは、当たり前のことである。正直なところ、内容の正しさはともかく「パフォーマンス」としては失敗しているメッセージだと思う。平凡なもの・特徴のないものというのは、子供であっても印象に残らない。

…捏造された記憶・印象かもしれないが、読み返してみてもう一箇所、記憶の痕跡がある箇所があった。司馬遼太郎が「歴史」に対して述べており、歴史を

この楽しさは — もし君たち さえそう望むなら — おすそ分けしてあげたいほどである。

と、表現している箇所だ。

歴史が面白いのは、最近になり知った

歴史というのは、特殊な人間を除き、まず授業で学ばされることだ。机に座らされて、邪馬台国がどうのこうの、聖徳太子がどうのこうの。

この出来事は「大化の改新」です。あるいは、この幕府を建てた人物は「源頼朝」です。西暦何年です云々どうのこうの。

歴史に因果関係・コンテクストを見いだせないと、未知の言語の暗記と性格が似てくる。「わからない」が「わかる」に変わる瞬間が楽しいことには、みなさん同意してくれるだろう。そして、意味のわからない暗記の強要と、その反復が楽しいわけがないことも。

思想家の東浩紀が、ニコニコ超会議において2チャンネルの元管理人のひろゆきと繰り広げた、ネットの一部界隈では有名な「論争」がある。ひろゆきの質問(を装った挑発)はこれだ

「哲学書とかって、応用可能性がないのに何で読むんですか?エロいわけでもないし、笑えるようなものでもない。面白くない」

対して、東浩紀の答えは

「快楽というのには、瞬間的にくるものと、我慢して我慢してドカンとくるものがある。思想書や人文書のおもしろさ・快楽は、後からドカンと来る。それに、「知」には、反復可能なものと、反復不可能なものがある。歴史の知・思想書の知は、反復可能性のないものであり、そもそもの知の「構造」が違う」

およそ、そのようなものであった。気になる方は、ご自身で確認して頂きたい。

司馬遼太郎の「歴史は面白い」発言が妙に記憶に残っている(記憶の捏造でなければだが)のは、「21世紀に生きる君たちへ」を読んだ小学校6年生当時の私は、その「ドカンと来る快楽」の我慢=苦痛=不快の段階だったからだろう。

言い方は下品だが、司馬遼太郎は「変態」だ。「司馬遼太郎が執筆にとりかかると、資料になりそうな古書が街の古本屋からごっそり消える」伝説を聞いたことがある。真偽はともかく、司馬遼太郎が楽しいと思うことを、落ち着きのない十代前半の少年少女が楽しいと思えることは、ほぼないだろう。

内田樹流に好意的解釈をするのなら

内田樹は、著書またはブログにて「メタ・メッセージ」を繰り返し取り上げている。内田樹の「メタ・メッセージ」とは、メッセージの形式にかかわるようなメッセージのことであり、内容・言論に先立ってある・認識できるものだ。

述べるのを忘れていたが、私が「21世紀に生きる君たちへ」に関して、覚えていたことがもう一つあった。タイトルである。

…子供は、子供であることが好きではない。何かを真剣に訴えても、大人はまともに受け取ってくれないし。大人と殴り合いしても勝てないし、お金も対して使えないし、自由にどこか遠くへ出かけられない。

そんな我々子供を、エラいはずである大人が羨ましいと(「羨ましい」とは、本文中にないが)表明する。

「私は、見ることが出来ない」と、生きているはずの人間が、死者の立場から我々にメッセージを送る。…ホラー映画を語ってるようだ。

司馬遼太郎がどこまで意識的に考えていたのか、意図を意識的に織り込んだのか。彼は死者なので、確かめる術はない。

内田樹風に言えば、存在するというのとは別の形で、死者は存在している。死者は語りかける。

それは、生意気な小学生であった(「今は生意気ではない」とは言わない)わたしに、ちゃんと伝わっている。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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