小説の”テイ”と、小説らしさ

人が例えば「これは小説のテイをなしていない」「これは小説ではない」というとき、思うとき、いったい何を意味しているのだろうか?

小説は文芸作品の一つの形式だが、詩もエッセイも文芸作品である。であるというより、そう扱う統覚を今回は用いる。

テクスト(読めるもの)

文芸作品(literarature)

小説(novel)

と、集合がどんどん狭まる。

文芸作品とは、テクストのうち芸術作品として認められるものを言う。芸術とは何かと考えだすと難しい

作者の意図を重視するのか、それとも鑑賞者の想像力に依拠するのか…。

私が確実に言えるのは、この私がこの世にある無数のテクストを、小説を読むときと同じように読んではないことだ。時刻表、グーグルマップ、スペイン語の教科書、誰が読んでんねんと言いたくなる同意書…。

(大まかな示唆だが、事前に照準を当てて”芸術”を定義づけようとするのか、事後に照準を当てるのか、または”話し手”と”受け手”のどちらを重視するかの違いもあるだろう)

話を戻すが、「これは小説のテイをなしていない」「これは小説ではない」と人が言うとき、あるいは人が思うとき、考えうるプロセスは

小説を読んだ

これは(今まで、私が読んできた小説)の様式まで至っていない

であると考えられる。

意図的か否か

保坂和志の未明の闘争は、おかしな文章がたくさん出てくる。「私は死んだ賢治が歩いていた」だとか、そんな感じの調子でずっと文が続く。

補足だが、文法には規則性はあっても、厳密な規則はない。文法を間違えても、直ちに意味が崩壊したりはしない。将棋では王を香車のようには動かせないが、言語にはなんとなくでも伝わる柔軟性がある。

保坂和志の文章を、”正しい日本語を使おうとして失敗した”と読む人はいない。しかし、仮にあなたが例えば日本語の教師だとして、生徒が「私は死んだ賢治が歩いていた」との文章を宿題として提出したとき、教師であるあなたは芸術的な意図が込められるとは捉えないし、添削を試みるか、あるいはペケをつけるだろう。

では、これは「小説ではない」と人が思うとき、何が発生しているのか?

それは、芸術家ー芸術ー鑑賞者の関係から、生徒ーテクストー先生の中間に視座への据え直し、あるいは、二つの関係の中間の視座への据え直しである。

もちろん、”つまらない(芸術)作品””なるものは、古今東西ありふれている。私にとって辻仁成の海峡の光はその”つまらない小説”に該当する。

ここで、一つ困った事態に遭遇する。猫田道子の「うわさのベーコン」である。

この本を読んだことがあるが、おかしな文章が満載であり、誰が誰の視点で何を語っているのか、表面は明瞭なはずなのに不明のままストーリーが進むクセの強い小説(四遍)が収められている。

海峡の光は、小説のテイをちゃんとなしている。小説として出版され、人々に小説として読まれ、私もそれに異議は唱えない。現に、私も小説として読んだ。

うわさのベーコンと未明の闘争は、どちらも訳の分からない文章が立ち並び、小説らしい小説とは言えない。そして、テクストだけを見れば、両書は「文法の狂った文章で書かれた小説」として、区別できない。

形式・様式を守ること、文法の規則性の範疇から出ないことは、面白さと因果関係がない。それは、少なとくと私にとっては確かだ。

狭義のアール・ブリュット

今は明晰に答えられないが、なんとなく私の中で扉を開く、鍵となりうるかも知れない保持している区分方法がある。

  • “アート”
  • アウトサイダーアート(正式な美術教育を受けていないものによって作られたアート)
  • エイブル・アート(障害者によるアート)

この3つ。

アウトサイダーアートとエイブルアートの二つの概念は、事前に決定している。障害者の方が何を描こうが、何をどんな風に作ろうが、それはエイブルアートだ。

うわさのベーコンは、事後的に「エイブルアート」としてカテゴライズされ、エイブルアートとして消費されたのではないかと思っている。

(「未明の闘争」を、エイブルアートとして読んだ人も、日本に一人はいるだろう)

是非フォローしてください

最新の情報をお伝えします

桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。