断言する。表現規制は善人をつくらない

ディストピアなのかユートピアなのか分からないが、あらゆる言説が検閲され、《政府》(あるいは中央権力。人民を縛り上げる強い力)が、直接的に、あるいは間接的に意見・表現物の「良い」「悪い」を区分けしていき、検閲を通過したものだけが「公共」の場でのお披露目が許される…現在の北朝鮮のような。そういった社会は、「善人」を生むのだろうか。

事実を誇張したり、実際以上にセンセーショナルな記事を発表する報道態度は「イエロージャーナリズム」だと批判されるが、新聞が特定の保護団体・人権団体からの圧力と抗議を避けるのも、イエロージャーナリズムの亜種だと言えるだろう。イエロージャーナリズムとは、程度問題として認識スべきだ。

報道媒体も、購買者がいなければ成り立たないし、新聞広告は大きな収入源だ。より大きな収益を上げたいのなら、スポンサーはできるだけ怒らせないほうが良い。

西ヨーロッパに顕著に蔓延する「ポリティカル・コレクト」(通称:PC)を、グローバルエリートが陰から操っているからだとか、ユダヤ人が白人を貶めるために広めているだとか、「暗躍者」を特定する作業は私には出来ない。ただ、「『文化左翼』に姿を変えて、共産主義者が世界を牛耳ろうとしている」というナラティブよりは、「進歩主義者と保守主義者が争っている」と理解したほうが、よりバイアスは少ないだろうという直感がある。

進歩主義者の言論規制・表現規制の根拠は、「この表現物・言論そのものが暴力である」あるいは「暴力を助長する」、細かな理由を挙げれば「ルッキズムを助長する」「年齢差別を助長する」「差別である」「差別を助長する」etc…推論をジャンプさせれば、「特定の不公平な状況に置かれた《集合》に対する差別行為・差別表現は、廃絶しなければならない」というものだと思っている。

盲(めくら)を「視覚障害者」に、「視覚障害者」から「視覚障がい者」に、どんどん言葉を変えれば人々の意識は変わるのだろうか。随分前になるが、2ちゃんねるで、知的障害者を小学生の児童が「養護(ようご)」と侮蔑の意味を込めて呼称しているのを問題視した教育者たちが、近隣の「養護学校」を「支援学校」に名を変えたところ、しばらくすると「支援」のワードが侮蔑語になったというエピソードを読んだことがある。

元NBAのスターであるチャールズバークレー、CNNのホストであるDon Lemonなどが、「thug(サグ)」は新たなNワードであると主張しているが、黒人のハードコアにやんちゃな青年を示すワードを、thugからriotあるいはcriminalに変えたところで、前述の状況と同じシチュエーションに陥るだろう。

ニュートラルな語彙の侮蔑表現化に対する抵抗として、thug・riot・criminal・punkなど、言葉を常に変動させるというレトリカルな戦略は取れるかも知れない。たとえそれが表面的な効果しか及ぼさないにしても、「公共放送で差別用語を使う」というシチュエーションは避けられる。

しかし、平等主義者・全体主義者にとって大事なのは、彼らが優先度を上げて取り組むべきことは、先入観・偏見・ステレオタイプの排除ではないだろうか。

婉曲表現の提言は何も人種間のコンフリクトを解決しない。もし人類皆が人種を事前情報として取り込まなくなれば、人種に基づく偏見や差別はなくなる。もちろん、それは夢想的なアイデアだが、目指すことだけならできるだろう。

アダルトチルドレンと反動的反ポリコレ

「盲(めくら)」という言葉は「悪い」言葉だと、小学校3年生の私は知らなかった。その言葉を知ったのは部屋の本棚にあった父親から受け継いだ教育書からだ。なにも知らずにその言葉を使って、教師にエラく怒られた。

また、「ガイジ」という言葉を使った児童もひどく教師陣に叱責されていたことを覚えている。そして皮肉なことに、中学生になると誰もが「ガイジ」だとか「養護」という言葉を使い始めるようになる。大人への反抗を端的に表明するためのワードとして。

もちろん一律的には語れないが、原理主義的な、ラディカルな、信仰の強制が美徳とされるような、反世俗主義的な宗教家庭で、子供が苦しむのは頻発するシチュエーションだ。

(私は、家庭および教育機関における児童への宗教教育に反対していない)

ポリティカル・コレクトネスの強制、及びマイクロアグレッション回避の強制は、反動的な差別主義者を生み出してしまわないかという懸念が私のなかにある。

「良い言葉」「良い振る舞い」を子どもに強制すれば、「良い大人」になるというのは幻想である。そんなことは皆分かっている。

批判もあるようだが、トラウマの克服方法として「談話療法」は世界中で浸透している。心理的な問題を抱えたクライアントに、トラウマや葛藤を話してもらうといったものだ。この心理療法の存在は、少なく見積もっても「問題を語らないことで差別問題は解決する/マナーの強制により差別問題は解決する」という仮説の反論として提出できるだろう。

ポリコレは新たな罪と罪悪感を創造しているか?

マイクロアグレッションをラディカルに超克し、更にポリコレを完備した人物とはどんな人物か?具体的に例を挙げるなら、他者とフェイス・トゥ・フェイスで対面したとき、性別や人種、年齢も分かっていないフリができる人物だろう。

そしてその分かっていなフリを、生涯にわたって突き通すことが「人格完成」である。21世紀型の平等主義的全体主義=ポリコレ推進・反マイクロアグレッションのイデオロギーではそうなっている。

では、その「人格完成」に馴染めない人間は、ポリコレ完全支配社会ではどう扱われるか?シンプルに「悪人」である。ポリコレに馴染めないだけならまだしも、ポリコレに反対すればどうなるだろうか?それは「極悪人」である。

誰かの感情・行動・振る舞いを操作したければ、相手に罪悪感を抱かせればいい。これは効果的な方法として良く知られている。そして「私は罪悪感を感じているのに、この人は罪悪感を感じていない」シチュエーションに出くわしたとき、他者に出会ったとき、人は寛容になれるだろうか?対話を試みるだろうか。それとも中傷するだろうか。暴力的な手段をもって、弾圧しようとするだろうか。

アンティファは、「ナチ」のことを同じ人間だと思っているか甚だ疑問である。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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