悪を悪として描くことを要求する穏健派?たちは

いわゆるポリコレ戦士、SJWと呼ばれる人たちとは少し異なるが、ある種の人々の「表現」物に対する態度・立場について気付いた点があったので、ここに記す。

悪を悪として描いているか

暴力表現(性暴力表現含む)をまるごと表現物から消せという立場は、あるにはあるが少数派である。

ただし、暴力表現を良しとしないまでも、容認する・擁護する立場があり、全面的な表現無規制を主張せず、作者が悪を悪としてえがいている限り良しとする立場がある。

本における犯罪描写の是非を問うためには、具体的に犯罪描写を引用する必要性があるが、その引用部分も違法とされてしまえば、そもそも問題について語ることができなくなる。

ややこしいのは、グランドセフトオートシリーズなど暴力が肯定も否定もされない類のものだろうが、あれはそもそもの世界のバカらしさと、暴力そのものに対する是も非もないから許されている気がする。

(殺したら住民が減っていく=リスポーンしないグラセフを作ったら、たぶんめっちゃバッシングされる)

暴力を肯定的に描いた作品は申し訳ないが思い浮かばない。しかし、性暴力を肯定的に、悪いものとしてではなく描いた作品ならば山のようにある。ある種のポリコレ戦士が反発するのはこの類の表現物である。

ただし、たとえ上段で述べた「悪を悪として描くのなら良い」一派でも、「この箇所は作者の代弁である」「作者の本音は隠されている」「そもこも言及すべきではない」などと、好ましくないものとして述べることはありえる。

(たとえ冗談としてであっても、レイプに関するものを許さない人たちのように)

大前提として

創作物における表現を「子どもに悪影響」だとか「女性蔑視表現」だと指摘する人たちも、ラディカルな表現規制派=特定表現の法罰化適用を求めている人であるわけではない。

この手の穏健派の自主規制を求める人たちは、「社会への悪影響」「子どもへの悪影響」を考えている。あるいは当人の不快感。

たまに「作者の人間性(思想)を疑う」と言った言葉に出くわすが、多くの人は創作物=作者の人間性の発露だと受け取っている。これは致し方ないことである。我々の日常において、長々と作り話をする機会などないからだ。

悪を悪として描いていない(ように見える)作品があったとして、それらに生理的な嫌悪感を覚えてしまうのは、生き物の生存本能・危機察知反応として解釈できる。

目の前に、「殺人・レイプは非犯罪化すべきだ」と主張する人間がいたとして、私はきっと戦慄を覚えるだろう。ある種の人々、作者と作品を分けて考えない、考えたくない人にとって、「悪を悪として描かない」作品とは、そういうクレイジーな人間と対面することに近い。

 

是非フォローしてください

最新の情報をお伝えします

桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。