フィクションと抽象

一般概念あるいは抽象概念に欠けているものは、量と質である。

量と 質は、実世界に”存在”する上で、不可欠なものである。この世に”ある”もので、概念でしかないものはない。

良い小説悪い小説様々あるだろうが、「小説」という概念自体は、良いも悪いもない。

この世界に矛盾はない。これは公理である。

この世界に矛盾はないが、我々の認識上では矛盾と齟齬が生じてしまう。

小説という概念自体に、良いも悪いも無いと書いたが、「小説足りうる」条件を設定して、その条件をクリアしようとすると、芸術・美学的観点から”低い”ものになると考えている人はいるかも知れない。

いるだろう。思い当たる節はある。

人間

人間の解釈は誤りうる。だが、この登場人物は設定上25歳だが、ほんとうは35才かもしれないとは考えない。

印象あるいは観念は、元来不安定な性質を備えているが、それでも「違うかも知れない」との検証を打ち止めにして初めて発生する。

実生活にしろ小説にしろ、事故にあった人は事故にあったと思わなければ、感情も発生しない。

つまり、観念とは打ち止めである。そうではない可能性を考えないことと言い換えても良い。

では、正直な嘘、コント・フィクション映画・小説において、嘘とは何なのだろう。

「胡散臭い人」は、正直に今から嘘をつきますとは言わない。本当のことを語っているように見えて、実は嘘をついているという懸念の反映が「胡散臭さ」である。

小説の「嘘臭さ」は、リアリティの欠如と言い換えられる。ある種、リアリティが反転している。

嘘を細かに作り上げれば作り上げるほど、最もらしさが小説において上がっていく。最もらしさがなんでもなければ、ハリウッドはあんなに大金をかけて映画を作らないだろう。

フィクションの哲学

ケンダル・ウォルトンは、フィクションとはごっこ遊び(Make believe game)だと主張していることで有名である。

フィクションの哲学に、こんな記述がある。

小説のテクストが言語学的な研究のための素材に用いられたり、絵画がもっぱら画材の分析という観点から研究されたりといった場合には、研究者はごっこ遊び的な想像とは無縁であるかも知れない。

フィクションの哲学 清塚邦彦 146ページ

フィクションの読み方は、スポーツのルールほどではないが、読み方のルールは社会的文脈によって決定されている。あるいは、時代背景を無視した”読み”は、アクチュアリティを持ち得ない。

子どものごっこ遊びは、虚構的に真ならしめてると同書153ページにあるが、もしかすると「ごっこ遊びが虚構的に真になる”世界”を、措定している」と換言できるかも知れない。

桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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