「抽象画」の需要は無限に続くだろうということ

マルセル・デュシャンの「泉」は、現代アートの出発点だと一般的に言われている。しかし、一般国民の意識レベルからすると、「現代アート」の出発点は抽象画だと思う。

ピカソの「アビニヨンの娘たち」はド素人には難しそうだが、ポロックの絵は我々にも描けそうだ。あの感じの抽象画、抽象画に限らず「描くことに訓練やスキルが必要とされなさそうな画」は、我々一般国民に「現代アート」および「アート」に対する不信感をつのらせる。

(「騙されているのではないか?」「なんでこんな絵を描いている人が金持ちになれるのか?」)

でも、「こんなの俺でも描ける」と所感を抱いた人間のうち、実際に抽象画を描くのは極々一部だ。そして、「こんなの俺でも描ける」の意識のまま、学生は社会人となる。

抽象画のイタさ

美術大学に通っていたので、抽象画を描いている人は何名か見てきた。彼らと直接話したことはないが、彼らが「なんでそんな絵を描くのか?」と聞かれたとき「そのときに心に思い浮かんだイメージを絵にしている」「自分の世界観を表現するため」「これは心象風景だ」。

だいたいはこんな返答をするのが想像できる。

抽象画を既存作品研究なしに描いて、そのままプロとして大成した画家はいるのだろうか?名を美術史に残した人はいるのか?もちろん一人くらいはいるだろう。みなさん知っているのなら教えてください。

抽象画は高級品だと思う

標題音楽よりも、絶対音楽のほうが、価値が高く高級な気がする。理由はわからないが(いつか自分で考え抜く必要があるだろう)、抽象画に対する僕のリスペクトは、クラシックの絶対音楽に対するリスペクトと似ている。

「コンテクスト抜きに成立している(鑑賞できる)コンテンツ」は、滅多にない。文学は言語で成立しているし、コンセプチュアルなアートも、具象画も、背景(コンテクスト)がなければ芸術として成立しない。

(もちろん、コンテクスト抜きにも”標題音楽的なもの”は成立するが、それは”標題音楽的なもの”の楽しみ方の半分を失ってしまっている)。

芸術作品(あるいは、たんに”コンテンツ”)は、基本的にコンテクストにひどく依存している。格闘技だとかスポーツのほうが、芸術よりもよっぽどグローバルだと思う。人種・母語・肌の色・育ってきた環境が違おうと、スポーツのルールは平等に適応される。

(…「八百長の哲学」「不正ジャッジ・不正採点の哲学」なるものは措定できるだろうか?)

抽象画を損なわせるもの・要素

抽象画と抽象画家をリスペクトしているが、そのリスペクトを損なわせる要素がある。

  • タイトル
  • 自作解題
  • 抽象彫刻

わたしの抽象画に対するリスペクトは、「言葉やコンテクスト抜きに成立していること」から来ている。だから詩の一説のような長いタイトルだとか、「この絵は~~~です」といった自作解題は、不純物だと認識してしまう。

「悲しみ」だとか「怒り」だとかのシンプルなタイトルもなんか嫌だ。

わたしがもしも抽象画家なら、絶対にタイトルは数字でつける。「No.1」「No.2」だとか、あるいは制作年月日。

抽象彫刻(抽象的オブジェクト)がなぜ嫌いか?それは、抽象彫刻なんか絶対おもしろいに決まっていると思っているからだ。日常にありそうもないものをオブジェクトにして、おもしろくないわけがないからだ(特にやたらとデカいやつ。「よくわからない形をした、やたらとデカい彫刻」なんか、おもしろいに決まっている)。

原初の抽象画/抽象画のイデア

「原初の抽象画」のようなものがあり、その抽象画との「差異」によって、抽象画に美しさや「価値」が生まれるのだという仮説・アイディアがある。

現代アートにまつわる本はいくつか読んできたが、抽象画に的を絞った著作は読んだことがない。2019年中には、数冊読みたいと思う。そしてまたブログに抽象画にまつわる文章をアップロードする。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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