サムの息子法と作者と作品の罪、地獄変

作者と作品を完全に分けることは、私にはできない。サムの息子法なる法律があるが、あれは倫理的な観点からではなく、テクスト論・作者論からも興味深い。

ドヴォルザークがスターバト・マーテルを作曲した経緯は、子どもを数年のうちに3人続けて亡くしたからだと言われているが、仮に「ドヴォルザークはスターバト・マーテルにハクを付けるため、子ども3人を自ら殺した」ことが明らかになったとき、自分は作者と作品を分けられるだろうかと考える。

私には分けられない。「作品に罪はない」と言えない。

作品の罪と作品概念

アメリカの大量殺人者に、カジンスキーという数学の助教授だった有名な人物がいるが、彼の論文を「カジンスキーは大量殺人者だから、この論文は引用できない」と言う数学者はちょっと想像できない。

論文は、「作品の罪」からは自由である。あるいは、科学的功績は知名度やアピール、プロモーションなどでどうこうできる領域ではない。

Rケリーの過去の暴行が報道されたとき、過去にコラボしたアーティストがそのコラボを撤回する動きがあった。

別に、コラボを撤回したからといって過去に暴行された人が救われるわけではないし、抑止力にもならないだろう。暴行する人というのは、社会的制裁がこわいからしないことはない。

そういえば、出演者の不祥事によって映画の公開が取りやめになる事例において、まだ薬物関連は「暴力団の資金源を断つ」という目的が見えるのだが、個人的な犯罪で公開が停止されるのは、いったいどうしたことだろう?

仮にだが、データとして「犯罪・性犯罪による作品の公開停止がある場合とない場合とでは、ない場合の方が有意に犯罪率が高い」結果が現れたとき、配給会社・制作会社・スポンサーはどう反応するだろうか?

サムの息子法の例外

ギャングスタラップなるジャンルがあるが、このジャンルにおいては犯罪歴やギャングの所属を偽ることはご法度である。 

(リック・ロスなどは、元看守というギャングの逆側の仕事をしていた。だが、檻の中のギャングたちから生活を聞けるので、ラップの歌詞の種にはなったかも知れない)

偽ギャングは糾弾される。ギャングスタラップ界は、前述の公開停止とは逆側の倫理で動いている。

実際に薬を売った過去がなければ、薬を売った過去を歌ってはならない。

また、一部のデスメタルにおいても犯罪行為は推奨されている。

主には生贄行為や黒魔術だが、デスメタルの人たちのアンモラルさは、モラルを徹底的に反しようという意志が感じられるので、倫理が倒錯しているように見える。

また、ギャングスタラップの人たちは薬物の売買や銃撃戦を武勇伝として語っても、人殺しや暴行を誇らしげにラップしたりはしない(暴行の脅迫はよくある)。

プロパガンダ・コマーシャル・アートセラピー

過去に子どもを事故で亡くした人が、亡くなった子どもが母親に会いに来るという絵本を呼んだことがある。絵本の後書きには実際に子どもを事故で亡くしたことが書かれており、息子さんの詩なども載っている。

この絵本は、作者にとってのアートセラピーに該当するものだろう。そういう作品を、批判・批評すべきではない。するとしても、アートセラピーの産物とは見なされない作品とは別の方法がいる。

同じことが、コマーシャルとプロパガンダにも言える。コマーシャルとプロパガンダを、思想・宣伝要素抜きに作品と分離して語ろうとする営みは、難しい。

小説などでは、商品の宣伝につながる固有名詞は避けられる傾向がある。コカ・コーラくらいまで行くと有名すぎて誰も何も言わないかも知れないが、マイナーな会社のグッズを作品中に出してしまえば、作者とその会社は関係があるのではないかと疑われる。

地獄変

芥川龍之介の地獄変という作品は、芸術至上主義的な姿勢が原理主義的に展開されている。「天国に入るためにはキリストのより信仰による他ない」なる信仰が、そのまま「この地上で良きことをなした人であっても、キリストを知らぬものは地獄に落ちる」といったラディカルさのままに。

「芸術至上主義」を、日本語の字義通り解釈すると、地獄変の絵師になる。

沢尻エリカに対して、小栗旬が「薬物をやる役だから、薬物をやります」という理屈は、「人殺しの役だから、人を殺します」にならないか? と、暗に沢尻の薬物疑惑に触れていた。

「人殺し役のリアリティが欲しいから、人を殺しました」という理屈がまかり通れば、演劇・映画産業は成り立たない。普通の俳優にチカチーロの雰囲気・迫力が出せるとは思えばいが、だから「芸術のための、人を殺してこい」と命ずる社会に私は住みたくない。

ペダンティズムと読者サービス

三島由紀夫や、初期の平野啓一郎は擬古典文体で有名だが、この二人の文体を「ペダンティズム」「ひけらかし」と見るか、「読者サービス」「作品に必要な表現」と見るのか、はっきりと権威が決定してくれるわけではない。

ある作品・作品の表現を、「ひけらかし」と見るとき、そこにあるのは技巧的な音楽作品を「見せびらかし」と見なす視線と同質のものが浮かんでいる。

わたしは「芸術のための芸術」「芸術至上主義」にラディカルに賛同しないが、「ひけらかし」「プロパガンダ」「コマーシャル」「アートセラピー」と、「芸術への非奉仕」を見とたっとき・感じたときは、その作品に触れないのがベターだろう。

どうしても我慢できず指摘したいときにだけ、指摘するべき内容である。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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