逆進するアルチュセールの演繹

出典を指し示せないのが申し訳ないが、ルイ・アルチュセールが彼の著作において、18世紀ヨーロッパにおいて「光」が質量を持つともなう物体であることを前提に進めていた科学理論があり、その理論は「完璧」であったが、科学的発見にはなんら至らなかった例を引いていたことを覚えている。

なぜなら、光は実体をもたない存在だからである。鉄を扱う理論のパラダイムで、光は扱えないのだ。

この「理論的には完璧だが、前提が違っていたため『真理』に到達できなかった」小話が余程印象的だったのか、私はワケもなくこのエピソードを折に触れて思い出す。

アルチュセールの挿話の装飾・肉付けを剥がして、骨だけにしてしまえば

演繹は、正しい前提からしか正しい結論を導けない」

と味気ないものになってしまうかも知れないが、むしろアルチュセールの”演繹法という言葉を介在せず、演繹法というメソッドに到達した力技”を賞賛すべきである。

  • 人は死ぬ
  • 大杉栄は人である
  • よって大杉栄は死ぬ

これが演繹の典型的操作だが、これは人は死ぬという常識と、大杉栄は人であるという常識から導かれる至って常識的な結論であり、結論そのものに価値はほぼない。

アルチュセールが剔抉したのは、科学者のような知的に卓越した人(人々)であっても、その上で完璧な理論であっても(完璧な演繹に基づいていたてしても)、そもそもの前提が違っていれば、誤った結論に至る人間の知力の臨海である。

  • 光は物質である
  • 物質は気体・液体・固体の三態をもつ
  • よって光も三態をもつ※

(※アルチュセールの著作からの引用ではない)

小前提は正しいが、大前提→”光は物質である”が偽であるがゆえに、結論も偽になってしまうのだ。

演繹がなければ科学は統計的にしか観察できないだろうが、科学において”確かな事実”なる出発点の設定は難しい。

アルチュセールは徴候的読解を提唱したが、これは「男は疲労回復のためにアドレナリンを使用するため、帰宅後30分後までは話しかけない方がいい」というステートメントから、「男女の生物学的差異の存在の前提」を見るといったことだ。

アルチュセールは、”演繹の逆進”を試みたと言えるかもしれない。それは、なんらかの理由で述べられていない理論・結論の大前提を浮かび上がらせることである。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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