純文学ーエンタメ小説ー実験小説の二分法について

純文学と大衆文学=エンタメ小説の区分が難しいのは、純文学の本とエンタメ小説の本が同じスペースに分け隔てなく並べられているからだ。
通常、本屋はいわゆる純文学作家といわゆるエンタメ小説作家の本を分けて配置せず、あいうえお順で本を置く。
デュシャン以降の現代アートはアートの示す範囲=アート概念の拡大に次ぐ拡大を通過している。
だから「引っ越し屋さんが積み上げた段ボールの箱はアートと見なされないのに、アーティストが美術館で展示する積み上げられた段ボールはアートと見なされるのか」といった問いが発生する。
この問いに対し、アートであるかどうかは作品の形や形式などに依存せず、アート・ワールドなる制度・システムに依存していると美学者などは主張している。私もこの説に賛成している。
(アートワールドも一枚岩ではないが、あることは確か)
文芸作品にアート・ワールドなる概念を導入すれば、純文学・エンタメの区分もスッキリするだろう。「これは純文学である」「これはエンタメである」と機械的に処理できなくて当たり前なのだ。
(一般読者が、純文学とエンタメ小説の区分に興味を持たないのも当然である。私も気にしたことがない)
実験小説と伝統的小説
豊崎由美の著書「正直書評」195ページに、純文学ーエンタメ小説の二分法ではなく、実験小説ー伝統的小説の二分法をこれからは導入すべきではないかと、だいたいそんなことを唱えていた。
豊崎氏は、従来の二分法を廃止した上で「実験小説ー伝統的小説」の二分法によるリプレイスメントを主張していると、「正直書評」の文言だけを見ればそう判断できる。
だが、純文学ーエンタメを区分する従来の方法と、実験小説ー伝統的小説を分けて考える方法を、どちらも独立させて存在させれば良いのではないかと提案する。
“クラシック音楽”もそうだが、ジョン・ウィリアムズや坂本龍一のオーケストラを用いた音楽も含めクラシック音楽と考える方法と、西洋の一時期に作られた音楽をクラシック音楽と考える方法、この二つのうちどちらか消えなければいけないことはないのだ。
純文学らしい読み方
現代アートというのは、複雑な感情を呼び起こすものであるべきだという考え方がある。これは、「純粋な怒りや悲しみを表現・表明したいのなら、言葉でそのまま言えばいい」なる言説の周縁にあるイデオロギーである。
そのイデオロギーは「このアートの意味は〜です」あるいは「このアートは〜のために作られました」「このアートの主張は〜です」といった読み方を拒否すべきである という主張・思想に読み替えられる。
つまり、現代アートは作品が現代アートらしくなければならず、その上で現代アートを鑑賞する上で把持すべき態度があるとの主張になる。
同じことを純文学に言えばどうなるのか? 文章でつくられた芸術である以上、文字・文章・単語の意味は無視できない。
だが、忘れてはならないのが「辞書に書いてあるのは用法であり、意味ではない」ことだ。
哲学書を読むコツは「存在」や「認識」「愛」やその他もろもろの単語を一旦カッコに入れて読むことらしい。そうすると、そうしないと哲学書が述べようとしている論理が見えてこない。
同様の読み方及び文化・イデオロギーは純文学にも哲学書ほどではないにしろ当てはまると私は考える。エンタメ小説で「友情」なるワードが出ればあの友情だが、純文学の場合はその「友情」が世間一般でいう友情なのか一旦カッコに入れて読む。
この読み方は、作品の内容と独立している。そういう読み方を強いるイデオロギーが存在するのではないかなる考察である。
芸術ー通俗の二項対立
チャイコフスキーの音楽に対して「通俗的である」といって彼の作品を退ける人がいるが、その人がやっている概念操作を大雑把に可視化すれば
- 芸術作品でないものに鑑賞価値はない
- チャイコフスキーの作品は芸術ではない
- よって、チャイコフスキーの作品に鑑賞価値はない
と、なる。この人物の考え方を受け入れなければいけないことはない。

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