芸術・フィクションの命題

書店には、ずらっと本が並んでいる。

ジャンル・分量・著者・内容物は各々違うが、共通しているのは「記述が確定している」ことである。

恋愛小説を読んでいるとき、気にくわないヒロインが主人公と結ばれたとする。自分がどう感想を抱こうと、既に書かれた本の記述は変わらない。

お笑い芸人は、明らかに観客の反応でネタのトーン・内容をリアルタイムに修正を加えている。だが、ミュージシャンはどうだろう? 役者は変えてそうな気がする。特にアドリブを許容する劇の場合は。

ケンダル・ウォルトンは、フィクションを「ごっこ遊び」making belief と例えたが、鑑賞者の干渉可能性は、無視できない要素な気が最近している。

鑑賞者=演者

ごっこ遊びの秩序を保つためには、ごっこ遊びのルールを守れない人間の排除がどうしても必要になってくる。

排除は絶対条件ではないかも知れないが、ごっこ遊びを遂行できない人間は、遅かれ早かれその遊びに参与し続けられない。

不思議なのは小説や演劇など、こちらの参与が条件付けられていない鑑賞者として携わる営みにも、虚構的空間が発生することだ。

私は特に貧乏性なので、買った本は読まないと気が済まない。読まなくても特には困らないのに、コミュニティから排除されないのに、読まねばならぬ気がしてくる。

命題の有無

フィクションとノンフィクションの境目を、命題の有無で分ける方法は正当だと直感している。フィクション内の記述 (絵画から、書かれたもの。映像なら映し出されたもの)に、真偽が問題となるような記述が見受けられると確認できるとき、それはフィクションとは言えない。

よくフィクション論の例に出される三島由紀夫の「仮面の告白」にしろ、三島の男の趣味の参考になり得る。

彼は仮面の告白を小説=フィクションとして提出したが、己の性癖を作品に反映する実作者なぞ、そこら中にいる。

(ただ私はあまり実作者と小説の語り手を区別して楽しみたいと常から思っているので、三島の実際の人柄などには興味がわかない)

そして、言語学的・民俗学的に読まれる小説というのもある。そのとき、そのテクストはフィクションとは言い難い。また、作者がちゃんと物語を作れているか確認する講師の目も、フィクションを鑑賞する目とは言えない。少なくとも、そこにあるのは命題を見る目である。

作品の巧拙を問題にする視点は、正解を鑑賞者が設定している。そこに至っていないのだから、その物語は偽である。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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