芸術の定義と、アート・ワールドの強さ

芸術はかつて、自然の模倣が至上の目的だった。だから写実的表現が評価されたし、精巧であればあるほど評価が上がった。

印象派のあたりから、画家は自然の模倣を辞めた。正確さを至上の価値としなくなった。

ここから、芸術の価値の観念が混乱してくる。

正解と命題

芸術が自然の模倣ならば、正解は自然の中にあることになる。

(流木を芸術作品だというシチュエーションは容易に想像できるが、その「芸術作品かのような流木」は、非ー模倣的人工物に似ていないだろうか?)

角度を変えて言うと、例えば絵画でタコの足が7本しかないとき、タコの足は8本ですよと指摘できる。

形式は、一回性のものであってはならない。繰り返し観察できるものでないと、形式・構造足り得ない。

形式・構造を、因果と言い換えても同じである。

作品は、模倣・量産可能である限り、構造化可能である。

物質性・有用性

「山」を即物的に、物質的に言い換えると、土の塊である。あるいは、岩の塊、岩の塊に土が覆われたもの。

物自体」を人間が認識できるかどうか定かではないが、いわゆる「散文的」「科学的」表現には、すでに意味・慣習的認識が入り混じっている。

科学の言語は、能う限り客観的・即物的でなければならない。科学に非科学的=私的な表現は居場所を許されない。

芸術は、実学的に有用なものであってはならない。というより、例えば芸術家が美しいオブジェを作ったとして、それが後に兵器として応用できることが発覚したとすると、もうそのオブジェに芸術は宿らなくなる。

かろうじて、オリジナルの後に兵器として転用されるオブジェだけは、芸術として鑑賞されるかも知れないが。

芸術は、それが無用であることを条件として要請する。

(人は飢餓状態にいるとき、誰も料理の美しさ、盛り合わせ、器の輝きに注意を払わない)

アート・ワールド

アーサー・ダントーは、アート・ワールドなる概念を提唱した。何が芸術であるか芸術で内科は、アート・ワールドなる歴史・場・重力・文化・雰囲気・権威が決める。

そこらへんにある箱でも、ウォーホルが集めて積み上げれば芸術になる。しかし、引っ越し屋さんがダンボールを積み上げても、それは芸術にならない。

…グラフィティ(落書き)を見て思うのは、大抵はありきたりな英語だったり、「東淀川連合」だとか、しょうもないギャング(?)の名前がスプレーされているなかで、たまに独創性のあるグラフィティに出会ったとき、どうしても「あれよりはマシだな」「キレイだな」と感じてしまうこと。

スカタンのなかに、光る宝石が混じっている。バンクシーはアート・ワールドに無理やり連れてこられたのだろうか?

芸術の定義

芸術を定義することは難しい、そんなことは不可能だという人の立場も分かる。しかし、我々は生活の上で出会うもの全てを「芸術」だとは認識しないだろう。

ジョージ・ディッキーは、芸術を①人工物②鑑賞のために作られたとアート・ワールドが身分を与えたもの

定義した。自分にとっても、腑に落ちる説明である。

アート・ワールドという因習的既得権益文化圏域を拒否することも可能だろうが、バンクシーがアーティストと世間から注目されてしまったように、芸術であることを拒否したポーズ・作品でさえも、飲み込んでしまう。

人格化して語ること許していただきたいが、アート・ワールドは貪欲であり、大らかである。そして、ありふれたものを見飽きている。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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