技術の陳腐化とコメディの美学用語

レジ打ちの速度は、バイトをするたびに当然上がっていった。私が働いていたのはコンビニである。いつしか検品を忘れることもなくなり、搬入も苦でなくなった。

今でもやってるかどうか知らないが、電卓のコンテストなるものがある。速さと正確さを競う競技だが、その技術が一体なんの応用ができるというのか。

格闘技なら、元々軍人のための戦闘技術として始まったものが、いつしか自己修養になり、現代において興行・スポーツとしても残っている。

フェンシングの技術は現代の戦場では役に立たないが、世界一フェンシングが上手ければ、オリンピック選手になれる。そのまま食える

役に立つという表現は曖昧だが、指す内容・対象自体が模糊としているため、それは避けられない。

(「西」だとか「東」の方角は、非専門家も比較的厳密に使用するワードだが、「役に立つ」はそうではない)

言語の陳腐化

話者がほとんどおらず、死滅しかかっている言語があったとして、それを保持することの意義について考えている。

わたし・我々とは何か、何者なのか。言い換えると、わたし/我々と彼/彼らを区別できる点はなんなのか。

母語は、その区別の際に重要なファクターになる。それは、認識の器そのものだからである。

インド・アーリア語族の言語なら、まだ他の同言語の言語を学ぶジャンプ台になるかも知れないが、イタリア語を学ぶためにスペイン語を学ぶ遠回りをわざわざする必要もない。

孤立した言語で、なおかつ話者がいない言語を学ぶモチベーションを、どこから人は持ってくるのだろう? “言語”そのものへの理解を深めたいからだろうか。

知の応用性

私の両親がそうなのだが、世の中を善悪二元論で分断するクセのある人はいる。

ついこの間、宇崎ちゃんの献血ポスターで人騒動起こった。たかが献血ポスターでそんなに怒ることがあるのかと私は思うが

  • 女性のモノ化は悪である
  • 女性をモノ化した表現のある献血ポスターがある
  • そのポスターは悪である
  • ポスターの作者は悪である
  • そのポスターを否定しないものも悪である

こうまとめればスッキリする。なぜ女性のモノ化は悪なのが、男性は悪ではないのか、そもそもその考えに至った経緯なども気になるが、今回は特に突っ込まない。

ここで転換すべきなのは、”なぜそんなに怒っているのか?”ではなく、”なぜ私は怒っていないのか?”である。

例の献血のポスターと、宅間守と何が違うのか。そんな問いを最近立てて考えている。

(“私が嫌だと思ったものは、悪である”と認識するタイプの人は少なくない。そのタイプの人に欠けている感覚は、倫理のグレーゾーンである。あるいは、情状酌量)

コメディ美学用語の欠如

画を評価するとき、”ダイナミックだ”だとか、バランスが取れているだとか、優美だとか、キッチュだとか、価値観の是非はどうあれ、用語・慣用的な隠喩敵表現がたくさんある。

そこで思ったのが、コメディシーンにおける美学用語の欠如である。ウケる/スベるは美学用語とは言えない。

かぶせ/天丼だとか、三段落ちだとかの用語はあるが、美学用語ではない。それらは形式にまつわる用語である。

美的判断・出来の評価が用語に入っていないのだ。

理由はなんとなく分かる。コメディには、「笑えないけど、良いもの」がないのだ。そして、「笑えるが、良くないもの」もない。

印象批評なる半ば悪口めいた、ある種の鑑賞態度を指すワードがある。そして、コメディに美学用語があるとしたら、「浅い」と「安い」だろう。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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