クソくだらない作品を断罪する権威

コンセプチュアル・アートという概念がある。「そういうジャンルがある」と考えるよりは、「アートという言葉を、何も絵画だとか彫刻に限定して使用しなくてもいいのではないか」という提唱を名詞として表現したものが「コンセプチュアル・アート」と捉えた方が理解は遥かにたやすいだろう。

アートの的外れさと、論理破綻しようがなさ

自然科学、 社会科学、人文科学と「科学」を3つにわけたとき、自然科学と社会科学は実験によって命題の真偽を確かめられるが、人文科学はそれが不可能だ。あるとしても「妥当性」という定数化できない指標しか作れない。

芸術作品・アートというのは、根本的に矛盾あるいは論理破綻することができない。限りなくクソくだらない作品であっても、作品である。オブジェクトは自家撞着できない。

もちろん、市場価値の高さ低さ、権威となりうるか、美術史で言及されるか、教科書に載るか乗らないか、パースが狂っているか狂っていないか、あなたが感動できるか否か…などの基準は設けられる。

「コンセプト」概念導入の毒性

「現代アート(コンテンポラリー・アート)なんか下らない」と、価値を一蹴して生きることはできるし、そういった人間は少なくない。アートファンであっても、デュシャンの泉やキュビズムを無視してアートを楽しめる。

しかし、アートのマーケットは、「コンセプト」を無視できない。そして、アートにコンセプトの概念が導入されたということは、「ノン・コンセプチュアルアート」の誕生も意味する。

写真などの登場により、絵画における写実技術の価値が下がり(画家の全体的な写実技術の向上も手伝ったろう)、宗教権威は低下し、宗教画の価値は下がり…、アートにおける「権威」「教条」はもう存在しないのだろうか?

形式主義というワードがある。クラシック音楽には特別に詳しいわけではないが、例えば「ソナタ形式の作品A」と、それをメロディだけ変えて展開などをほぼ同じくした「ソナタ形式の作品A’」の価値が同じだと考えうる/作品は形式に還元しうると考えだしたら、作品の個別性は消え失せてしまう。

「コンセプト」概念の導入は、例えば非常に古めかしい写実的な絵画を、「『反コンセプト』的態度の表明」に仕立て上げてしまう。

「この作品は何がいいたいのだ?」と考える態度を鑑賞者に半ば強制してしまうのは、アートの可能性の喪失である。

カウンターカルチャーも高級化する

シュプリームのTシャツが5万円したり、貧困層の遊びとして始まったヒップホップも「高級」「低級」の区別ができてきたりする。漫画もそうだろう。グラフィティもそう。

「クラシック音楽・小説」は高級で、ヒップホップや漫画は低俗だという価値観は、依然として健在だが、知識人と見なされる人たちで、これらの「サブカルチャー・カウンターカルチャー」を評価している陣営は弱小ではない。

私がコンセプチュアル・アートへの判断に望むのは、「クソくだらないもの」とそうでないものを区別する「権威」の出現である。私が知らないだけで存在するのかも知れないが、現在のアートファンにぼんやりと共通している鑑賞態度は「あなたが良いものと思うものが良いもの」であり、自由に感じるのが一番だという見方である。

クソくだらないコンセプチュアル・アートを無視するのではなく、「私にはわからない」というのではなく、攻撃する圧力団体の出現を強く望む。

歴史の不可逆性

この松本人志のツイートにある通り、アート界には「最初に『それ』を見つけたやつがエラい」という価値観がある。以前わたしはそれについて触れた。

いくつも作品をつくっていけば、何か一つ「発見」するかも知れないという期待で、作品を量産する芸術家はいるのだろうか?

ここで少し、提言をする。わたしは、頭のいい人・論理的な人・作品を意図して作れる能力のある人が評価される社会を強く望む。そのためには

  • 作品を説明できるアーティストをより高く評価する
  • 作品数を絞って発表するアーティストをより高く評価する
  • 同じコンセプトで作品を『作れる』人を評価する
  • 新しい手法をいくつも試す人を評価する

風潮が望ましい。一度発見したレシピに固執し、ずっとセルフパロディを生涯続けるような芸術家は、識者がピックアップしてバカにすべきだ。

(もちろん、テクストは作者から独立して鑑賞できる。ただ、「頭のいい人」がきちんと評価される社会を作ろうと思うと、上述の事柄を実行せざるを得ない)

確信犯的に

分野・ジャンルを問わず、文芸作品であってもヒップホップであっても絵画であっても、映画であっても、一つの「権威」が必要である。その権威に従うもの、反発するものが生まれ、業界にダイナミズムが生まれる。また、権威に従順でありたいという人間の欲望も叶えてあげられる。

その権威の形成は、確信犯的でなくともいい。「権威なんか共同幻想だ」と言う人間は、一人は必ずいるし、その反発に共鳴する人間は少なくないからだ。

この世の全ての人間を統一して従わせる思想・教条・権威があるとすれば、とっくに誰かがそれを見つけて、世界中に広め切っているはずだ。人類が言語を獲得して、おそらく1万年以上は経っているだろうが、そうなっていないということは、そんなものはない。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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