テロ行為以外で世界を変えるには

世界のありかた・有り様を変える方法は、テロリズム・革命の他ないとすること。これほど恐ろしい思想はないが、コンセプトと心情は理解できる。「肉食反対デモ」の主張に、賛成はしないが気持ちはわかるというのと同様に。
(YouTubeで屠殺の動画を見れば良いだろう)
大切なものは隠されているのか?
ありふれているもの、例えば自由材のようなものにも当然価値はある。空気がなければ人は死ぬ。しかし、自由材をいくらかき集めても、お金持ちにはなれない。
秘儀・あるいは神秘体験は、体験である以上「知識」よりはより確実であり、「根拠」がある。
これも分かる。法悦というものは確実に存在する。脳内麻薬によるトリップなのか、心霊の導きなのか、霊性の上昇なにかは知らないが。
神秘主義運動というのは、通常「超宗派的」らしい。教義・教説ではなく直接の「体験」を重視するのだから、そうなるだろう。
(神秘主義とは少しズレるが「宗派や宗教は関係なく、霊性が高い人物は存在する」という信念は、キリスト教的には異端なのだろうか?)
人を助けるべきか
困っている人を助けるべきだ。これは、常識の範疇だろう。反対しない。
では「社会人の週末のボランティア活動・社会奉仕を法令にて命じる」これはどうだろう?
政府による身体拘束だろうか。ファシズムに繋がるので反対するという立脚点はありえる。しかし、これが「会社」あるいは「学校」の命令ならば?
会社なら、労働法などを根拠に反対できる。ただ、「部活動はやりたいが、週末の練習だけは嫌だ」という希望は、特殊な事情がない限り認められない。
(そして、週末の部活練習は社会通念上で大いに許されている)
シンパシーの限界
いわゆる「いじめっ子」にしても、刹那的な価値観、見下される・価値を低く見積もられることへの反発、恨みつらみ、嗜虐行為の快楽、などをコードとすれば、シンパシーは辛うじて残る。
自爆テロは、いじめっ子へのシンパシーよりは遠いが、わからないでもない。これは、ヤクザ映画を見ればわかる。親分が正しかろうが、間違っていようが、負け戦にフルコミットする美学は感じ取れるだろう。
(当たり前だが、自爆テロにも個性があり、目的・心情・動機は各々異なる。動機は追いかけてもキリがないので、アクションに対して「わかる」とこの場では言っている)
ネクロフィリアだと、自爆テロよりもシンパシーは遠い。というより、シンパシーが発生しない。意味がわからないし、分かりたくもない。
シンパシーの対称性
読書嫌いは珍しくないが、「ラディカルな読書嫌い」のような存在がいたとして、そいつにとって、自分は自分にとってのネクロフィリアなんだろうか?
私は読書嫌いの気持ちが分かる。何年間か、本を読めなかった時期が私にもある。
A→Bのシンパシーはあっても、B→Aのシンパシーがない
このようなケースは、ありふれている。双方にシンパシーが発生するならば、グループ・集合として、社会学の観察対象の条件を備えるだろう。
例外/超法規的措置
隠喩として、「超法規的措置」を語彙に導入できないかどうか最近考えている。個々人には行動規範があり、ポリシーがある。しかし、例外行動はあるだろう。口がすべることもある。
「限界を超えて鍛錬しないと、成長しない」
これは、神秘主義的だろうか?
シンパシーの限界を超えるために、とりあえず「私」の理解を超えた嗜好を持った人間の、話を聞いてみることは有効だろう。シンパシーの拡大が、”良い”ことなのか”悪い”ことなのかは分からないが。
議論しなくてもいい社会
ジジェクが、「私にとって理想的な民主主義とは、政治的問題の話し合いに全て参加できる社会ではなく、話し合いに参加しなくとも、万事がうまく行く社会だ」と語っていたのを覚えている。
ジジェクが言っているのは、例えば「殺人の非犯罪化」を主張する人と、いちいち話し合わなくて良い社会に住みたいという、至極まっとうな意見である。そして当然、官僚主義が望ましいことになる。
スティーブ。ジョブスは、アンケートや顧客の要望を無視して、自分が良いと思ったものの製品化を志した。これも、民主主義の否定といえばそうだし、少なくとも「民意の否定」ではある。そして、ジョブスの民意の否定は、アップルに繁栄をもたらした。
何が欲しいのか、何をしたいのか本当には自分でも分かっていないのが人間であるとすると、民意に沿うだけでは民主主義を達成できないことになる。私も、民主国家における”国民”は主権=王であることに間違いないが、監査役程度の役割でいいと思う。

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