アイロニーに陥ってはならぬ

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「『もっとも大きな嘘』を決める嘘つき大会が開催された。そして、『私は生まれてから、いっぺんも嘘をついたことがない』といった者が優勝した」……

有名な小話である。バカリズムが大喜利で言いそうな発言内容だと思う。

しかし、アイロニーと嘘は違う。では、アイロニーとは…と、説明しようとしても難しい。

(『ロジックとは何か』説明するくらい難しそうだ)

アイロニーは、「逆のことを言う」「反語」とは限らないが、例えばバカなことをした人に「日本の誇りですよ」など、実際の性質と真逆に思えることを述べるパターンは多い。

日本語だと、嫌みに近い?

アイロニーは、当てこすりとは違う。「皮肉なものだな…」というときの「皮肉」は、当てこすりではない。サーカズムではない。

キルケゴールは、「アイロニー」と「浪漫的アイロニー」を区別している。かいつまんで言うと、「アイロニー」を、…ソクラテスが用いた「アイロニー」を、「否定の身振り」。

近代に現れた「浪漫的アイロニー」を、ヘーゲルの「アンチテーゼ」になぞらえ、ソクラテスにあった「全面的な否定性」の態度が失われてしまっているとしている。

あくまでもキルケゴールの主張の私流解釈ではあるが、ソクラテスのアイロニカルな身振りが、当てこすり=サーカズムに近いのに対し、浪漫的アイロニーには元々の「ソクラテス的アイロニー」にあった「当てこすり性」のようなものが失われてしまっていると言いたいのだろう。

真理≒真意を措定し、それに至るための橋渡しとして機能するのが「浪漫的アイロニー」だとすれば、”話し手”(”書き手”でも同じことだが)の主張の理論的帰結を、相手に代わって語ってみせることが、ソクラテスのアイロニーである。

(「人に迷惑をかけなければ、何をしても良い」を徹底すると、「生前契約で、死後に死体を性的に弄んでよい権利」を、人に与えられることになるが、現在人はそれに耐えられるだろうか?)

真理≒真意

アイロニーは、真理≒真意の前提がなければ、成立しない概念である。アイロニーか否か、機械的に判別する方法は存在しないが、話し手の意図から外れ、アイロニーとして機能することはありえるだろう。

つまり、言説が”アイロニカル”ではあっても、真理≒真意の前提が認められない場合、見つけられない場合、その言説は「ナンセンス」に過ぎなくなる。笑えるかどうかは関係がない。

宅間守を評して、誰かが「彼こそ、”真の保守”である」と言ったとき、あなたはそれを読み解く営みを実行すると思うだろうか?私はしない。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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