異端と信仰の揺らぎ

宗教組織にとって、異端は「異教徒」よりも厄介な存在である。

キリスト教からすれば、エホバの証人やモルモン教、統一教会。イスラム教からすれば、おそらくバハーイー教。

宗教・宗派を「正統」と「異端」を分けた際、異端というのは、「正統」派の信仰を前提としているのにも関わらず、教義が異なっている。

例えば、正統派のキリスト教徒は、「イエスは我々の原罪を贖い、天に召された」と主張するが、「彼は、目的を果たせず天に召された」というのが統一教会だ。

異端とは少しずれるが、イスラム教もキリストの三位一体を認めていない。ユダヤ教も同様だ。

異端との対抗方法

異端を改宗させようと思ったとき、避けられないのが神学的な論争である。聖書・聖典の語句を引用し、これらからあなたは逸脱している、あなた方は拡大解釈している…云々。

例外があるとすれば、言語外の心霊体験・神秘体験を重視する宗派だろうか?

神学的な論争は、例えば「神は罪を許されるはずのに、聖書で永劫の罰を示唆しているのは矛盾していないか?」の問いから、「これはあくまでも比喩である」あるいは「永劫の罰はあくまでも天使に対するものである」など。他には、エホバの証人が主張する「聖書に、天国あるいは地獄の描写はない」から、「ここに記述がある」といったもの。他には「メシアが再臨されたとき、どのように分かるのか?」。

運命論も、神学上の重大な論争である。もし、世界創造の地点で何もかも決定されているとしたら、人間の自由行動は存在しなくなる。そうなると、ナチスのホロコーストも、母親の子殺しも神の決定のうちになってしまう。

「神は全てを決定されて創造されたわけではない」とすると、神の全能性が否定されてしまうし、神は全能ではないと言ってしまうと、グノーシス主義的な、悪の神が理論的に導かれる。

(「神は人間に、自由意志を与えたのだ」とすると、回避は可能である。しかし、そうすると何故神が人間に自由意志を与えたのかまた別の問題が出てくる)

文芸批評に近い

少し硬めの文芸批評を読んだことがあるのなら、神学論争の理解はしやすい。内在する作者という概念が文芸批評上にあるが、これは「聖書の正統性」などを考える際に、キー概念となる。

不敬な表現だが、”エヴァンゲリオンの謎本”も、神学の論争に相似性がある。聖書との違いは、作者が人間なのか、”そうでない”かの違いだ。

(”聖書の神性”は、神学上の重要なトピック)

ときどき思うのだが、西洋の神学論争をすっ飛ばして、日本に西洋哲学が導入されたせいで、尋常ならぬ混乱と勘違いが引き起こされてる気がしてならない。

異端かどうかは、一般信者には関係がない

一般信者にとって、神学的論争、聖書解釈の問題は馴染みがない。端的に、しんどいからだ。イスラム教に反発心があるキリスト教徒でも、キリストが真理の言葉を語っていて、ムハンマドがそうでない理由を考えるのは、骨の折れる作業だ。

別にそれでいいと思う。哲学が一般人に必要ないように、神学も一般人に必要がない。

しかし、信者は神学上の論争に、”巻き込まれる”瞬間が、少なくとも一度はある。二つあり、それは

  • 信仰の揺らぎ
  • 異端との遭遇

だ。解決方法も、これと同じように

  • 神秘的解決(心情的解決)
  • 理論的解決

この二つに分けられる。人間の心は都合良くできているため、不整合であっても”正しい”と信じられるが、納得できないまま心に蓋をし、信仰を続ける信者は少なくない。というより、大半がそうだろう。

卑近な例だが、ラップバトルにおけるバイブス (熱量・迫力・気合い)が、宗教的立場に大きく作用している。「なぜ《特定の宗教》を信じているのか?」という問いに対し、伝統だから、家族がそうしてたからと答える人は少ないが、皆そうなのだ。

(ブレイビクは、「文化的なキリスト教徒」と自認しているらしいが、それはもう信徒ではない)

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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