自分のために書かれた書物はないだろうが

「まるで自分のために書かれたかのような本」に出会ってしまうことを否定しないが、その著者は貴方は知らないのである。あなたのために書いたわけではない。本は手紙ではない。論理的にはトートロジーになってしまうが、本は「人物Aのためだけに書かれた」瞬間、それは手紙となる。それがたとえ商業出版プロセスを経ていても。

「ターゲット層」の射程範囲内に入ることはあるだろうが(20代の独身男性向け・ミリオタ向け・猫好き向け・裁縫趣味人向け)、それにしたってあなたは「複数人の内の一人」である。

しかし、自分のためだけにはないにしろ、自分(のような人物)のために書かれた本には、私も何度か出会っている。

その本と、他の本は何が違ったのだろうかと疑問に思う。

同意だろうか?

「著者の主張に、一から最後まで同意できる」書物は確かにある。私個人の具体例を挙げられないのが申し訳ないが、たしかにある。

しかし、それは「自分が書いたような」であり、「自分のために書かれた」本ではないだろう。「本が言いたいことを既に知っている・分かっている」本を読む楽しみあるだろうが、私はそんな本を読もうとは思わない。

積ん読している書物が多すぎるのだ。小説だろうと評論だろうと、読書中に知的負荷がかからないと不安を覚える身体になってしまった。

(この世界には、俺の知らない叡智や愉楽がゴロゴロ転がっている(はず)なのに、俺は平板な感情反応しか起こさない読書をしている…)

文体のレベルで、「まるで自分が書いたような本」にも出会ったことがある。具体的には橋本治の本だ。

ただ、橋本治と私が似ているのは表面の入り口だけであり、彼の知性には私は到底及ばない。

ただし、私は橋本治と表面の入り口だけはよく似ているため、彼の言いたいことがよく分かる。彼、橋本治の本は、私にとって「私が200年修行と研究と功徳を積んだら、もしかしたら書くかも知れない本」だ。寿命がそれほどないだろうことが悲しい。

共感だろうか?

孤独を感じている人間が、同じく孤独な語り手・主人公・登場人物の独白・声明に癒やされることはある。かなりねじれた”癒やし”だが

「私は孤独ではあるが、孤独なのは私一人だけではない」

ことを発見し、孤独が癒やされる(ような)感覚を体験する…。

このとき”自分のために書かれたのではないか?”との感想を抱かせる要因は、共感ではなく「救い」である。

苦痛の緩和させるきっかけを探し求めていたら、思わぬところにそれを発見し、まるで誰かが意図的に私宛にそのチャンス・きっかけを送ったかのように捉えてしまう。

著者は、あなたのことを一個も知らないのに、である。

それでも、始め会ったのに、初めて会った気がしない人というのはいるし、両親は何十年も一緒に住んでいるはずなのに、少なくとも僕の場合は理解し合えない間柄だ。

人が「この本は、わたしのために書かれたのではないか?」と思うとき、そこに発生しているのは相互理解・共感ではなく、共鳴だろう。言説の形式やそのものではなくて、人間的な根本あるいはプリンシプルに通ずるものを感じたとき、人は共鳴する。

嫌いな言葉だが、「君は、昔の俺に似ている」も同根のステートメントである。

「既に知っていること」=「分かりきっていること」=「当たり前のこと」について述べられた本を読んだところで、我々は感動しない。読書を通し「当たり前のこと」を思い出して感動することはありえても。

我々は感動するとき、必ず「未知」の扉を潜っている。

わかるけど納得できない

私は、ホリエモンこと堀江貴文の言っていることがよく分かる(そもそも、彼は難しいことをメッセージにして発信しない)。

「結婚はリスクでしかない」「老後を考えるな」「常に行動しろ」……。

…200年修行と研究を重ねても、ホリエモンみたいな言葉遣い・立ち振舞いを身に着けられる自身が全くない。

なぜなら、私は「ホリエモンがなぜそんなことを言うのか?」「どうしたそんな態度なのか?」が全く分からないからである。

ホリエモンのメッセージ「飲食産業はブルーオーシャンだ」「皆、本気で儲けようとしてない」ここまでは分かるのだが、その後に私財・時間・労力を投入し、東京の一等地で和牛レストランを開くまでの情熱にまるで納得できない

私が彼くらい頭がよかったら、そして知名度とお金があったら、もっと重箱の隅をつつくアカデミックな活動に身を置き、若手の研究者や芸術家のパトロンになるだろう。

自分の代わりに考えてくれる人

誰だか忘れたが、「読書とは、自分で考える代わりに他人に考えてもらうことである」と読んだことがある。全面的に同意する。この金言は、読書の危うさ・パフォーマンスの高さ・有用さを、一言に含めている。

私にとって橋本治は、まさに「自分の代わりにものを考えてもらう人」だ。しかも、自分よりも高度で、自分よりも洗練されている。たまに冗長に過ぎるときはあるが、その冗長さを含め修辞が美しい。

…本を読みすぎると、自分で物を考えられなくなると聞いたことがあるが、それはありとあらゆる問題に過去の読書体験からの引用で対応できるようになったからではないだろうか?

「自分で考える」ことが不可能になるくらい本を読んだ人間になってみたいものだ。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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