立花孝志と坂本慎太郎の共通点と分岐点

立花孝志が、鴨頭嘉人のYouTubeチャンネルに出ていた。立花は、「頭の悪い人間は、肩書に弱い」と言い、立花の母親も、彼が議員になったら議員証を仏壇に飾り出すなどして、それまでもパチンコやスロットで政治家以上に稼いでいたのに、急に息子を誇るようになった。うんぬんの話をしていた。

立花は、人を肉食動物と草食動物に分けるアナロジーを提出する。草食動物は群れる。草食動物とは、端的に言うと労働者である。上司(あるいは経営者)の悪口をいってウサを晴らす。

そこから抜け出そうとするのが、肉食動物である。肉食動物は、人を肩書きで判断せず、権威になびかず、話す内容でその人(あるいは内容を)判断する。

無茶なアナロジーはともかく置いといて(そもそも、ロジックの補強・補足のためのアナロジーではなく、話の抽象度を下げるための、聴衆への敷居を下げるサインのためのアナロジーの活用)、興味深かったのは「草食動物は、草食動物から肉食動物になろうとする人間を、引き止める」という箇所。

それまで毎日グチばっかり言っていた同僚が、急に目覚めて、「グチを言うくらいなら、何かを変えよう」「ビジネスチャンスはどこにでも転がっている」「成長しよう」「俺は成長したい」と言い出すと、立花の言う草食動物たちは、その肉食動物(見習い)を引きずり落とそうとする。

エリーティズムと呼ばれる立場・スタンスだが、己のエリーティズムに無自覚なよりはよっぽど良いと思う。

まともとふまとも

元ゆらゆら帝国の坂本慎太郎が「まともがわからない」という曲を出しているが、あの曲内で「まともがわからない」と言っているのは、立花の二分法の枠外にある人物である。

なぜなら、まともがわからないという思いは、上司への不満でもないし、悪口でもない。

エアリプなるコンセプトが存在するが、エアリプの場合「悪口の対象であるアカウント」が存在する。

上述の坂本慎太郎の曲のつぶやき(つぶやきでもないが)には、メッセージの宛先となる対象人物が存在しない。宛先は存在はするが、感情の行先が世界そのもの・社会構造・人間という、抽象名詞への手紙となっている。

自虐・自罰でもなく、他罰でもなく、本来怒りや自己嫌悪に直結する感情が、安っぽいが”世知辛さ”だとか、”やるせなさ”に移行する。「まともがわからない」だけではなく、坂本慎太郎の書く歌詞はそのような構造になっている。

十戒の第三条

話がまた飛んで申し訳ないが、また別のお話をする。モーセの十戒について。

モーセの十戒は、非キリスト教徒・ユダヤ教徒でも理解できる分かりやすいものだ。だが、三番目、「神の名をみだりに唱えてはならない」だけは、直接的な理解ができない戒律である(と、思っている)。

まず、日本語の「みだりに」が難しい、(ヘブライ語が分かれば一番いいのだが)英語訳だと「in vain」と約されているこの箇所だが、神の名「ヤハウェ」を連呼してはダメなんだろうと、子供ながらに勝手に解釈していた。

(もちろん、これもあくまでも後々の牧師や、神学者の解釈)

だが「みだりに唱えてはならない」というのは、神の名のもとに、間違った行いや裁きを正当化してはならない」ということだとの解説を読んでから、子供の頃からの疑問がやっと解決した。

実例を挙げれば、イスラム国の虐殺正当化などが当てはまる。彼らは、神の名の下にアクションを正当化している。

何が間違った行為なのか、正しいのかはほんとうには分からない。カトリックでは離婚は認められていないが、プロテスタントでは正当化されている。

だが、カトリックでもプロテスタントでも(カルト・異端と呼ばれる宗派でも)、共通しているのは聖典を根拠としていることだ。神学論争はいつだって、「あなたは間違っている。なぜなら、エゼキエル書三章六節では…」といった形式をとる。

聖典が複数ある場合であっても、優先順位がある。コーランとハディースでは、コーランが優先される。

…自己啓発セミナーの講師たちを、詐欺師扱いしている人を多々見かける。しかし、高額セミナーのどこにもウソはない。実際に、高額セミナーで人生を変えられた人もいるだろう。

ただ、自己啓発セミナーの「自分を必ず変えられる」「必ず生まれ変われる」などの惹句は、法律的にも問題視され得るとは思う。

草食動物と肉食動物の区分根拠

立花が人を草食/肉食で区分するとき、参照されるのは攻撃性や自信満々な態度の有無ではない。生存戦略として、群れる/群れないの選択こそが、アナロジーの出汁になっている。

群れる人間・群れること は悪ではないし、立花もその生き方を完全否定はしていない。立花のスタンスはあくまでも

「俺は、そんな生き方を、群れる生き方をしたくない」である。「嘘をなるべくつきたくない」もある。

坂本慎太郎と立花孝志は、およそ共通点というものが見当たらない二人だが、この二人とも聖典を持っていない・聖典を参照しない点においては共通している。

その上で、両者は人にヒエラルキーを設けるか設けないかで分岐している。立花は設けて、坂本は設けない。

嫌悪感を言動・創作の根源としながら聖典を参照せず、他罰的なのが立花とすれば、他罰なのか自罰なのかが曖昧なのが坂本で、自罰に傾くと太宰治になる。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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