文学ニア・イコール エクリチュール覚書

プログラミング言語は言語と呼ばれているが、二進法のゼロか一、あるかないかの物質的根拠など実際の言語にはない。

だが、我々は言語によってしか語れない事情がある。

文体について

表面的な、漢字が多いだとかカタカナ語が多いとかで、文章を評価・判断することに意義はある。

だが、カタカナにしろ経済分野のボキャブラリーなのか、いわゆるポストモダン哲学の語彙なのかどうかで性格は違う。

バルトは、エクリチュールなる概念を提案したが、これは従来の「文学作品」や「小説」などの概念ではなく、たとえば「歴史」を考えるとき、中国の歴史やローマの歴史といったものはなく、歴史しかないと考えたとき、一つの文明・一つの建造物に与えられる規格・位置の位置をいわゆるそれまでの言葉で言う文学作品に与えんとするものである。

だが、歴史あるいは人間の相関を考えるとき、いま・ここ=現在と、過去と未来は断続しているようで連なっている。現在=エクリチュールを過去と切り離して、あるいは未来と切り離して考えることはできない。

“エクリチュール”が歴史の一部であって、そうではないというのは、バルトの言わんとしたことはそうなのだと私は解釈している。

(エクリチュールの零度)

哲学や思想は直接政治に関わるわけではないが、人間を介して遠回りに影響しているのだ。

凝固した記憶としてのエクリチュール

「記憶」は過去に存じているわけではなく、現在において蘇る・想起するといった営みでしか発生しない。

エクリチュールが我々のおしゃべり・語りと区別されるのは、その性質ゆえである。何かを伝達するのではなく、また巨大な人類歴史・営みの泡沫の彼方になじんで消えゆくのでなく、客体・オブジェクトとして存在し続ける。

著作家がたとえ一切”政治的”な発言をせずとも(そもそもラディカルな意味において、非政治的なモノ・コトなど存在しないのだが)、社会参画・アンガージュマンを成しているとみなされるのはそれゆえである。

バルトが想定したのは主に本だろうが、動画サイトなどで溢れる映像などもエクリチュールに性質が近いだろう。

また、「文体」なる概念も、エクリチュールだけで判断できるものではないのだ。マルクス主義者の大仰な文体は、生きるか死ぬかの革命を生きており、最終的な世界共産革命を目指していると自認・他認していないと、滑稽なものに写ってしまう。

イスラム圏において、「カファー」は「異教徒」あるいは「信じぬもの」程度のいみだが、イスラム原理主義者の会合においてこの語は「死ぬべきもの」「死ぬか改宗を選ばせるべきもの」を指すだろう。

(共産主義者においては、「分派」あるいは「トロツキスト」だろうか)

小説は、あるいはエクリチュールはそれ自体が歴史である。しかもその歴史は「わたし」あるいは著作家の歴史ではなく、社会に隷属している。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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