余力を残して継続することとバーンアウトの回避

小説家の丸山健二が、トリスタン・ジムのトレーナー、フィラス・ザハビと似たようなことを言っていた。
丸山健二の場合は、「毎日決まった量を書き続けること、そして、その作業に嫌にならないことが重要である」。
フィラス・ザハビの場合は、「毎日全力でトレーニングしてはならない。新しいことに毎回チャレンジするためには、余力を残して明日に備えなければならない」。
頭脳労働と肉体労働
丸山健二は、小説の執筆という頭脳労働を肉体労働的に考えている。本人はもちろん自覚的だろう。
話は変わるが、ジャズピアニストのキース・ジャレットもインタビュワーから「一日八時間くらいピアノの練習をするんですか」なる質問に対し、「一日に八時間も練習したら、音楽を考えられない」と答えていた。
ピアノのメカニックな練習と、音楽そのものについて考えることは別個だが、分離はできない。それでも、延々とピアノを弾いていては、特にジャズピアニストのような半分作曲家のような存在においてはマイナス面が大きいのだろう。
反田恭平が、インタビューで「小説や本を読む人の方が、演奏の引き出しが大きい」と語っていた。映画などでも一緒だろう。
だが、読書をすれば演奏の解釈の幅がひろがるというよりは、知的好奇心の高い人間は演奏幅が広く、彼らは読書をするというだけな気もする。
閑話休題。
小説を毎日限界まで書き続けるということは、自分の引き出しを限界まで引き出すことである。
シンプルに言えば、インプットなしでアウトプットだけしてる状態だ。新たな情報を入れようと脳が余裕を見せない。
これは難しい。私のような一夜漬けタイプの人間は、継続してコツコツと何かを貯める作業が苦手である。また、「力を使い果たさない」決断も難しい。自分を甘やかすことは簡単で、自分を追い込むことも短期的になら難しくない。
追い込まず、サボらず、継続する。言うは易く行うは難しである。
神秘主義とインスピレーションの罠
吉松隆は、毎日作曲をしていると語っていた。今はどうだか知らないが、かつてはそうだったのだろう。
逆に、ロシアの作曲家リャードフなどは、インスピレーションや閃きがなければ作曲の筆に取り掛かることはなかった。それもまた一つの選択である。
霊感(インスピレーション)対継続。
霊感に頼ることを否定しないが、問題は霊感が滅多に浮かばない。一度も思い浮かばなくなったときはどつするのかという問題だ。
トラウマと余力
千原ジュニアが。トラウマ以前の、トラウマにならないような心理的外傷を「ネコポニー」と呼ぼうと提案していた。
ザハビと丸山健二が「全力を尽くすな」と経験則なら語るとき、千原ジュニアが言う「ネコポニー」が念頭にあるのは間違いない。
脳が、体が、精神が「やりたくない」と思わない以前の水準で継続すること。
前提として、「人間は怠け者である」「人間は、生を維持する以上の努力を回避しようとする」本能がある。そう二人は考えている。
「無理すると続かない」なるステートメントは、私には「無理してしまうと、ある地点で『この努力をしてまで得たいか? 成し遂げたいのか』と自問する瞬間が来る」に思える。
仮説だが、イーロンマスクやジャック・マーだって、一日中仕事に直結すること以外考えないわけはないのだ。
ニュースを読む行為だって、近視眼的に見れば非効率で、コストパフォーマンスを期待できない行為である。だが長期的にみれば、世間の感覚や情報をアップデートせず実行されたビジネスアイデアは、成功する確率が低いことは素人でもわかる。
毎回細かなプロジェクトに全力投球し、力を使い果たしていけば最終的に出がらしになる。
丸山健二、ザハビ、キース、反田恭平の言わんとするところはそこだろう。
(「もう嫌だ」と思う手前でやめて、なおかつサボらないこと……)

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