3DCG作品のNG集は誰得なのか

伊集院光の奥さんが、映画『STAND BY ME ドラえもん』の「NGシーン」を嫌がったという話を、「世界は数字で出来ている」で読んだ。
ここで言うNGシーンとは、映画の最後にエンドロールと共に流れる「撮影中の失敗」を集めたものである。ジャッキー・チェンの映画などにはお馴染みの手法だ。
ピクサーなどは、3DCG作品にも関わらず「NG集」を取り入れている。トイ・ストーリー、バグズ・ライフ、モンスターズ・インク等々。
あのNG集に、エンドロールを飽きさせずに見せる効果はある。名前だけをずらっと見させられるよりは、ずっと楽しい。
良いのか悪いのか
伊集院光の奥さんが嫌がった理由は、「『これは演技です』と言われたみたいで嫌だった」という、真っ当なものである。
何をもってテクストとするのかは難しい。
シュガーラッシュオンラインに、過去作のディズニープリンセスが出てくるシーンがあるが、あれはクロスオーバーと呼ぶべきだろう。
(あのシーンで、「過去作のディズニープリンセスが全て役者であったことが判明した」と解釈することに、正当性は認められない)
アニメ作品のNG集も、無視しようと思えばできる。特にドラえもんはそうだろう。藤子不二雄の漫画から、架空世界の人間が演劇をしている設定は出てこない。
ドラえもんの漫画とアニメと映画が、同じ世界軸でやっている必然性はないが、ドラえもんというのは一話完結型のアニメ・漫画であり、また日常を舞台にした漫画・アニメによくあることだが、一年を繰り返すようにしてずっと子供時代を繰り返している。
(ポケモンのサトシも、全然歳をとらない)
また、アニメ映画は伝統的に、スピンオフである。ドラゴンボールの映画も、本編とは連動しないことになっている。
その伝統を踏まえれば、ドラえもんのNG集は、ピクサー映画のNG集ほど世界観に影響しないことが分かる。そもそも分岐した世界軸の出来事だからだ。
フィクションのパラドックス
アニメ作品のNG集に対する反応に、擬似的なパラドックスを見て取れる。
人は、フィクションであること重々承知でアニメを見るのに、そのアニメ=フィクション内で「これはフィクション=作り話ですよ」と言われると、なんだかガッカリしてしまう。
変な話だが、「人は、ほんとうに有った話を見たくて、フィクションを見るのではないか?」と疑問が思い浮かぶ。
流石にそれは変すぎる。だが、「人は、虚構世界の真実を見たくて、虚構を鑑賞する」と修正すれば、おかしくはなくなる。
「その世界」でほんとうにあったこととして、皆んな作品を楽しみたいのだ。最近はピクサーもNG集を入れなくなったらしいが、そもそも誰得だったのか疑問である。

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