異性愛と同性愛は、程度問題なのか?

なぜ世界の大半の人間は、異性愛者なのだろうか?

言葉だけでドグマティックに考えても答えに到達できる疑問でもないし、自分の死ぬまでに納得できる理由が見つからない。…そんな予感がある。

私は男性で、ものを考えるときも「男性的視点」から出発してしまいがちだ。

直感から離れるが、女性の大半は同性愛者あるいは両性愛者という研究結果がある。ただ、調査結果は”異性愛者を自認する女性が魅力的な女性の写真を見たとき、同性愛者の女性と同じような瞳孔の開きがあった”というものなので、”女性は皆、同性愛者または両性愛者である”と結論を出すには、十分ではない。

ともあれ、両性愛者の女性は男性に比べて多いという調査結果がある。原因ははっきりとしないが、性指向が男性の場合はっきりと可視化されやすく、女性はそうでないことに一因があると思われる。また、性指向の自認と、”実際”にもズレがあるのも間違いない。

異性愛と同性愛は、程度問題なのか?

同性愛者および性的指向の”確定”=タグ付けは難しい。一度でも同性に惹かれたら同性愛者なのか、コンスタントに同性に惹かれなければ同性愛者なのか、論争が交わされている。

世間一般=常識感覚的には、10代あるいはそれ以前の時期に、「同性愛的」な気持ちを一度抱いたことがあったとしても(あるいは関係をもっていたとしても)、それ以降の人生で異性愛者として生きているケースでは、「混乱していた・形成ができていなかった」時期があっただけだと認識されるだろう。

また、同性愛と少年愛は明確に区別されうるべきである。女性というのは、一般的に男性と比べて幼児的な特徴を大きく残しており、少年により近いからだ。それに加え、刑務所で”同性愛者”が増えるように、戦場において機会的同性愛の実践(?)に至ることもあるだろうし、それに、権力者・有力者に可愛がられることは、少年(稚児・若衆)にとってもメリットはある。

(お笑いコンビ「サバンナ」の八木は年上女性好きを公言しており、40代の女性は好きなのかという質問に対し「いやいや、そんなんパロディですやん」と答えていた。少年も、そういった意味で女性のパロディである)

フロイトは、同性愛を「異性愛の未発達状態」と見なした。「同性愛者は悪魔崇拝者である」と思われるよりはマシかも知れないが、同性婚なども国家に認められつつある昨今、何の気なしに主張できる内容ではないだろう。

それに、人間の”認識”はあくまでも五感を介在しており、その五感は世界を完璧に写し取ることはできない。異性愛←→同性愛は、スペクトラムのある「傾向」として扱うべきだ。…この理論展開が、反同性愛運動の骨組みになることは理解しているが、性指向を「不変」のものとして扱ってしまうと、反例の存在により、同性愛者の権利と自由が脅かされてしまうだろう。

そもそも、絵に過ぎないものに興奮できるのが人間なのに(彼らと我々とでは、繁殖の可能性がない)、「異性愛」「同性愛」という確固たる指向があると、なぜ思うのだろう?

同性愛者特有の遺伝子・ないし特徴は見つかっていない。

キリスト教原理主義者などは、”もって生まれた同性愛者”を認めない。「神は、そのように人を創っていない。本来の道から外れている」と応答する…サタンが両性具有として描かれることは、クリスチャンが無意識裡に異性愛と同性愛の境界の曖昧さを、覆い隠そうとしたためだろうか?

(同性愛者の男性の脳と、異性愛者の女性の脳に、著しい類似性が見られるという研究結果がある。しかし、脳内スキャンで性指向を決められる世界に住みたい人間はいないだろう)

異性愛者であることは、言うほど自然だろうか?

「人にして欲しくないことは、他人にするな」とは、孔子の言葉である。あらゆる状況とシチュエーションに当てはまる道徳原理は存在しないだろうが、命令としてシンプルで分かりやすく、子供にも受け入れやすいものだ。

しかし、異性愛は(正確には、異性愛者同士の異性愛行為は)、上記の言葉に根本から対立してしまう。あなたにとってあなたの体が性指向から外れているのに、あなたは己の体を他人にオファーするのだ。

男女の生物学的性は、違う。身体能力には相対的差異があるが、体の構造は”絶対的”に違う(シロナガスクジラからすれば、人間の男女の身体能力差など、無いに等しいだろう)。また、”行為”も、よくよく見れば訳がわからない。人間は本能が壊れた動物というが、赤ちゃんがやたらめったら口に入るものを吸ったりする習性など、幼児の行動を除けば、本能はほぼ残っていないだろう。

ポリティカル・レズビアニズムという運動がある。ざっくり言ってしまえば、「家父長制・父権性に抗いながら、『男』と関係を持つのは偽善的である」という主張の実践だ。当然、彼らは「変えられない性指向」など認めない。また、性自認にも否定的だ。こうなってくると、フェミニズムは排外主義的ナショナリズムに近づいてくる。

(”本当の女性”の利益を拡大するための活動・運動に、隣接していく)

かなり奇妙な(性差別的なことは発言したくないのだが)、通常とは異なった漫画を読んだことがある。その世界では、”男性の体”に女性器があり、”女性の体”に男性器がある。そういった世界は、物理上存在しうる。人間界では、男性と女性とでは男性の方が身体能力が高いが、動物界では逆もあるし、メスがオスの30倍の大きさを持つ生き物も存在する。

異性愛者男性は、男性同士のキスの場面に、「不安感」あるいは「嫌悪感」を催しているらしい。気持ちは、少し分かる。自覚は最近までなかったのだが、自分には”生物学的な男性性”に対する嫌悪感があり、自分のような人は少なくない。

不思議なのは、異性間のカップルのキスを想像してみても、嫌悪感は湧いてこない。男性嫌悪はどこに行ったのだろう?慣れすぎて、なにも感じなくなったのだろうか。

大多数の人間は、”両親の性生活”、そして行為の想像に嫌悪感がある。…「自分」が取りうる行動・思考を、快・不快に分類すれば、間違いなく「不快」に区分けされる想像だ。この反応は、社会的に形成された「インセスト・タブー」によるものだろうか?

不快感(もしかすると、不安感)の裏にひそむもの

女性だと思っていたら、生物学的女性ではありえないような、まさしく「男性」的な低い声で話し始める。安田大サーカスのクロちゃんの声を初めて聞いたときは笑ったものだが、このシチュエーションは笑えるものではない。

強い感情を自分の内部に感じたが、あれは不快感なのだろうか?不安感なのだろうか?

トランス女性が、裏声で話し始めても私は驚かないし、強い反応も起こらない。それに、ケンコバみたいな見た目の人が、ケンコバみたいな声で話し始めても、特に何も思わない。

自己弁護になってしまうが、これは「不安」だろう。女性は基本的に男性よりも力が弱く、攻撃性が低い。そう思っていたら、違ったのでまず驚き、不安を感じたと推測できる。

(「脅威」に対する、自己防衛のメカニズム)

人に何故感情が存在するのか、感覚が存在するのかは現代科学によっても説明しきれていない。だが、仮に痛覚が人に備わってなかったとしたら、子供が遊びで手をナイフで切り刻み、感染症あるいは出血過多で亡くなるケースが相次ぐだろうし、誤食・誤飲も劇的に増えるだろう。

「ゴキブリになぜ嫌悪感を抱くのか?」という問いに対し、「ゴキブリは、不潔・不衛生を象徴し、それらは人間の環境を悪化させるからだ」と説明したとしよう。

これを、「同性嫌悪」「異性嫌悪」に対して説明しようとすると、どうなるだろうか。

「男」「女」の二項対立をラディカライズ・深化・純粋化していくと、2つの極性が導き出される。

ゴキブリが象徴するもの、経験的な”ゴキブリ”を介して”世界”が我々に印象づけるものは何か?「男」が象徴するものをひとまとめにして、巨大な「原・男性」を仮定するとどうなるか。

ここまでくると、ラカンの「女は存在しない」宣言に近づいてくる。私は他人にそのアイデアを説明できるほど究めていないのが申し訳ないが、

  • 「人間の本能は壊れている」
  • 「人は象徴を介し世界に触れる」

この2つの前提の理論的帰結として、「女は存在しない」(男も当然存在しない)が導き出される。ついでに、「白人は存在しない」あるいは「人種は存在しない」。

参照になるもの:ラカン派の「<男>は存在しない」

        生き延びるためのラカン 第14回 女性は存在しない? 

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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