ワンパターンとクリシェと作品

筒井康隆の「大いなる助走」に、同じパターンの展開を繰り返す作家の話が出てくる。

うろ覚えなのが申し訳ないが、一度ある作品で認められた若手作家が、次の作品、次の次の作品でも同じ「男女の最終的な別れ」をパターン的に繰り返すとか、そんな話だった。

そのエピソードを読んだ当初は、「なんか面白いな」「笑えるな」としか思わなかったのだが、芸術の価値だとか、フィクションの価値だとかを考え出しているこの頃、受け取り方が変わってきた。

お笑い芸人が、あちらこちらのテレビ番組に呼ばれているうち、飽きられるといった現象がある。

「例のあのギャグをやってください」「出演者にあだ名をつけてください」などと言われている内、パターンが出尽くして、出がらしみたいになっているタレントを何人も見てきた。

だが、彼らがやっているのは同じギャグである。”面白さ”は、構造的には変わらないはずだ。

変わったのは、我々だろう。同じものを何回も見せられ、展開が予想できるようになり、飽きる。

エヴァンゲリオンのヒットの後、セカイ系なるジャンルが隆盛したが、エヴァの目新しさは減った。エヴァは変わっていないのに。

実作者

話が大幅にズレてしまったが、「大いなる助走」に出てきた「ワンパターン作家」の面白いところは、(おそらく)作品単体を見れば、馬鹿にするような要素がないことだ。

男女の別れの物語パターン1を

  • 学生
  • 社会人
  • 日本人と外国人
  • 地球人と宇宙人

表層を変えて、繰り返したとする。おそらく、作品単体を抜き出せば面白い。しかし、流石に4つ続けて続けられると、馬鹿にされてもおかしくないなという気がしてくる。

「同じパターンを繰り返す作者は、馬鹿にしてもよい」根拠は提示できないが、話を脱線しながら触れた「展開が予想できてしまうから」という理由は、一つの有力候補だ。

展開の行く末が最終的にどうなるか分かっているストーリーを、好んでいる層はある。水戸黄門ファンだとか、「小説家になろう」というサイトで、いわゆる「異世界転生もの」を好んで読む人たちも、そうかも知れない。「昼ドラ」ファンもそうだろう。

(「自分の予想できないストーリー展開が嫌いだ」という態度自体は、否定すべきではない)

しかし、マンネリしたクリシェ展開を好む層にしたって、「主人公が最終的に成功する」だとか、「ヒロインが浮気したりしない」「悪者はやっつけられる」「男女の中がこじれる」展開は望んでいたとしても、最終的に望んでいるストーリーの帰結に至るまでの経緯には、それほど同じパターンを要求していないように思う。

ヒロインが幼馴染だろうと、敵組織の人だろうと、親戚だろうと、転校生だろうと、最終的に主人公と結ばれればそれで良いのであり、過程に関してはそれなりに皆寛容だろう。

筒井康隆が「大いなる助走」で描いた「ワンパターン」は、過程もひっくるめての「ワンパターン」だったことを覚えている。

流石に、「過程と結論に至るまでの道筋が、好きな小説とほぼ同じものを読みたい」読者は、マイノリティだと思う。”クリシェ展開”・”ワンパターン展開”のファンだって、バリエーションを望んでいる。

安西信行

余談だが、安西信行という過去の漫画の展開を組み合わせて漫画を作って以下のような漫画家がいる。烈火の炎にしろ、MARにしろ、まるで目新しさがない。

「モノマネは、最初にそれをやった人がエラい」というが、漫画もそうである。

もし、安西が「烈火の炎」を、(おそらく)彼が参考にしたであろう作品抜きで成立させたなら、「烈火の炎」の評価は、今与えられている評価の100倍くらいになるハズだ。

実作者:その2

橋本治の「三島由紀夫とはなにものだったのか」という本を、読まなければよかったとたまに思う。

橋本治が本書で行ったことは、「三島由紀夫の精神分析」である。三島由紀夫という作者を、彼の実生活と作品の区別をせずにとりあげ、三島の「パターン」を描き出している。

うろ覚えなのは先に謝っておくが、橋本の剔抉した三島のパターンはこんな感じだった

  • 主人公に、誰か好きな人がいる
  • 主人公は、好きな人に「好き」という気持ちを知られたくない
  • 主人公は、好きな人に「好き」という気持ちを知られる
  • 主人公が、その好きな人を殺す

こちらに、「三島由紀夫とはなにものだったのか」の要約が書かれている。気になる方はチェックしてください)

最後の「殺す」を除けば、甘酸っぱい青春のストーリーだが、橋本が「三島が個人的な動機をもって書いた小説は、全てこのパターンだ」と断言しているのを読んだとき、あまり愉快な気持ちにはならなかった。

それまで、いくつかの三島作品を読んで、感動していた私にとって三島は、「すごい作品を書くエラい人」だった。

しかし、橋本治の描いた三島は、「かわいそうな人」である(本文中にも、「かわいそうな人」と同じ表現はあったと記憶している)。

私は三島を見上げていたが、橋本は三島を見下げていた。…少なくとも、「先生」扱いはしていなかった。

作品の作者は、かしこ(賢い人)かも知れないし、アホであるかも知れない。

それでも、私が「作者の書いた作品は、作者個人のセラピーである」と読んでしまう橋本治流の読み方に反発を覚えるのは、その読み方をすると何かを失ってしまう気がするからだ。もったいないことをしている気になる。

その”何か”が何なのかは私も分かっていないが、「楽しみ」「愉楽」「享楽」「エンタメ」に関することであることは、強く予感している。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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