世界はコードで出来ている

大学時代に、授業で始めて「テクスト論」を耳にしたとき、目からウロコが落ちる思いがした(珍妙な表現ができてしまった)。

国語(現代文)のテストでは、「作者の意図を答えよ」「ここで作者が言いたかったことは何か」と答えさせられてきたのに、「作者は、テクストの意味の決定権を所有していない」「テクストは作者から独立している」と教示されたのだから、それはそうである。

だが、よくよく考えてみれば、「テクスト論」はそれほど過激なことを主張しているわけではないことが分かる。

人間はいい意味でも悪い意味でも、他人と他人の言葉を「発信者の意図」通りに受け取らない。

「名探偵コナン」に、手紙で「shine」=(輝き)と書いてあったのを、「死ね」と書かれたと勘違いして悲惨な行動をとってしまった人物が登場するが、これほど極端な例は珍しいにしろ、誤解は日常生活に溢れている。

ただし、作品と作者を完全に切り離して考えるのは寂しいと感じる人も多いと思う。そういった方は、ウェイン・ブースが提唱した「内在の作者」概念を導入すれば、気持ちが和らぐだろう。

テクスト論と感情(emotion)

話は変わるが、「感情」emotionは、理性的・論理的な思考を妨げるのか、それとも助けるのかどちらなのか考えたことは皆さんあるだろうか?

人は往々にして、「ついカッとなってやってしまった」り、”感情的”になって後々後悔するようなアクションを起こす。

感情がなくなれば、あるいは感情がもっと平板化すれば、人はもっと理性的になれるだろうか?

ソマティック・マーカー仮説なるものがある。その仮説では「”情動”は論理的思考・悟性よりも先に現れる」という主張をしている(ソマティックは”情動”と”感情”をワケて考えているが、情動が無意識に属し、感情が意識に属するとソマティックは定義付けている)。

日常言語的な言い回しでこの仮説を説明すれば、「考える前に、人は感じている」になる。これも、そこまで過激な主張ではない。

またソマティックはこの他にも「情動及び感情は、”判断”を助けている」とも主張している。日常生活の”決定”を、いちいち理屈で考えていたら脳がもたないため、感情が選択肢を狭めてくれている云々。

科学者からの反論はあるが、この説もそれほど突飛ではないだろう。「無意識が、自我が近くするこの世界にフィルターをかけている」という主張は、むしろ現代脳科学以前の、フロイト時代からの定説だ。

こちらでは、感情をカメラのオートフォーカスに、理性を手動フォーカスに例えている。下手の考え休むに似たり)

作者の意図

作者は、テクスト(注:読めるもの)を全てコントロールできないし、作者の意図から外れた読み方を、「私はそう思って書いていない」と否定するのは野暮だと思う。

8.6秒バズーカ反日騒動などから、観察できることが3つある。

  • 作者は、テクストの意味を全てコントロールできない
  • メッセージの受け取り手は、テクストの「目的」を見る
  • 作者は、テクスト解釈の権威を失いうる

8.6秒バズーカは、「我々は反日の意味をネタとコンビ名に込めていません」「原爆被害者を愚弄してません」「隠れたメッセージを発信したいわけではありません」と繰り返し語っている。

公式に声明発表があったのにも関わらず、少なからぬ人が「ハチロクバズーカ反日説」を支持している。

都市伝説でしかないとの説もあるが、京都で「ぶぶ漬け(注:お茶漬けのこと)でもどうですか?」というオファーは、「そろそろ帰って下さい」と言いたいときに使うフレーズらしい。

「ぶぶ漬け」のワードに、「帰れ」というメッセージはテクスト内に読み込めない。もちろん、「ザワークラウト」がドイツ人の別称になるなど、単語が何を指すのかは恣意的である(=意味の恣意性)。しかし、ここに「感情」を見取れないだろうが?

文章作成の代表的キー概念として、「結束性」と「一貫性」が挙げられる

結束性は分かりやすい。どういうことかと、一言で言えば「家電製品の説明書のように文章を書け」ということである。

対して一貫性を一言で言おうとすると、「矛盾した主張をしない」とでも表せるだろうが、では「矛盾した主張をしないこと」とは何か合点できない人に対しては、「2つ以上の同じことがらに対し、1つ以上の結論を導くこと」とでも説明できるだろうか。

結束性は文章を書く前に「キー概念」あるいは「パラグラフを包括する概念」「共通概念」なるものを想定すれば。テクストに反映させられる。対して一貫性をテクストに反映させるためには、自分の書いているものに、それ以前の「テクスト」を裏切っている内容はないか?と、徴候的に読む=書く必要が出てくる。

一貫性というのは、「2つ以上の意味のまとまり」がなければ発生しない。

一般的に、「一貫していない主張」は批判されやすい。しかし、「よそはよそ。うちはうち」と言っている母親が、「隣の家のA君は勉強を頑張っているのに、あなたは勉強しないの」と言い出したりする事態は世界に溢れている。

単一のテクストに”一貫性”がないのは問題だが、2つ以上のテクストに一貫性がないのは珍しくない。

「作者の目的」に話を戻すが、この世界にあるもののうち、人間のつくったもので「目的なしに出来たもの」は存在しない。運用上どう使われるかは別にしろ。

「このテクストの目的は何か?」と考えることにおかしなところはない。だが「ぶぶ漬けどうですか?」のメッセージに対し、「私に帰れいうことですか?」と聞いても、「はいそうです」とは答えない。

「8.6秒バズーカ反日説」にしたって、まずコンビの片割れ”はまやねん”が大学時代にツイッターで呟いた、日本国をバカにするようなつぶやきから、「証拠探し」が始まっている。

「テクスト論」を原理主義的に展開すると、「はまやねんがいくら釈明しようと、そうではないと説明しようと、『反日証拠集め』に捏造情報があろうと、”はまやねんは反日である”と主張できる」ことになる。

テクストの読み方のルール

アナーキーに、「テクストをどう読んでも良い」というのは、相対主義を言い換えているに過ぎない。

意味とは、原理的に共同主観的である。「意味」とは、「非意味」が「コード」によって「意味化」して、始めて「意味」として顕現する。

参考文献:ソマティック・マーカー仮説について

桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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