改宗と、寛容性に関するあれこれ

30歳、40歳を過ぎて、人が劇的に変わるということは中々ない。よっぽどのことがない限り。

そのよっぽどのこととは、新しい恋だとか、ショックな出来事などがあてはまる。

「人は中々変われない」ことは、どんな人だろうとなんとなく感じられるが、「棄教・改宗」の大変さは理解するのが難しいだろう。

改宗の重たさ・棄教との違い

それまでの慣習、クセ、先入観、常識はなかなか変わらないのは人間の本性だろう。だが、棄教とコンバート(改宗)はまた違う。同じ現象として扱えない類のものだ。

改宗は原則として、モラルの再構築を意味する。例えば、それまで豚肉を禁忌として食べていなかった人に対して、「豚肉を食べていいよ」といったところで、その人物が抵抗なくバクバク豚肉を食べるようにはならない。

モラルというのは、身体感覚的・皮膚感覚的だ。モラルの感覚、モラルのセンスと言い換えても良い。科学者が人間の排泄物を栄養価の高いスーパーフードに変える新技術を発明したところで、その次の日から人類はバクバクと抵抗感なく人間の排泄物を食べられるようになるわけではない。

(卑近な例だが、改宗は「初恋の人と運命的に結ばれる夢」が、砕け落ちる過程と似ている。)

改宗のきっかけとして最も一般的なものは、召命・天啓である。

「そのとき、イエス様に出会った」あるいは「神に出会った」というナラティブは、古今東西において枚挙に暇がない。

それがイエス様である根拠、神である根拠はない。しかし、霊的な証に自然科学的なエビデンスを求めても仕方がない。

しかし、それまで揺るがぬ信仰を持っていたものが、天啓によって改宗・入信するという例は、マタイの他に知らない。
(追記:入信と改宗と棄教を、もっとちゃんと区別して語らねばならないだろう。反省する)

天啓による改宗の前には、いつでも信仰の揺らぎ、疑心がある。そして、神に答えを求めて祈り続け、そして”ほんとうの神の教え”に出会う。これが改宗の典型だ。

どんな”神の教え”であっても、メシアあるいは預言者によって神の言葉は伝えられるので、物理的には”どの人を信じるか”の問題だ。しかし、語られる教えは信仰者の主観上、”神の教え”であるので、”どのものが神の教えを正しく伝えているか”が、争点となる。

改宗した以上、それまでの信仰は”ほんとうの教え”ではなかったことになるのだが、イスラム教はアブラハムの宗教を全面否定しているわけではないので、全面的なモラルの再構成というよりは、心身に施されるのは「大幅な修正」だ。一神信仰から多神信仰に、多神信仰から一神信仰に至る例は稀有である。

改宗者が、儀礼主義的であることはない。「この義務を果たしていれば、神に許される・天国に至れる」と考えてる人間は、わざわざ改宗しない。つまり、儀礼ではなく内容と心霊を重視する。

儀礼ではなく心霊を重視するということは、「いかに良心に反しない生活を送っているか」を、価値の尺度とすることとほぼイコールだ。宗教的寛容性は、この精神からしか発しないだろう。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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