芸術のデッドエンドと人間という鑑賞者

バッハが古典派の時代から今日まで尊敬され続けているのは、ひとえにバッハが対位法のデッドエンドに到達したからである。

(デッドエンドというのは、終局・それ以上がない場所)

声楽においてはバロック以前のルネサンス時代に既に、ポリフォニーは完成を見てしまっている。

トリエント公会議で過度なポリフォニーが禁止されてしまったそうだが、詳しいことは分からない)

しかし、器楽分野においては楽器の性能の未発達という理由もあり、ポリフォニックな作品は隆盛しなかった。そこにバッハが現れ、一台でポリフォニーを極めてしまった。

ハンス・リックがワーグナーを評したときも、「ワーグナーの先にワーグナーはいない」と、後世証明(?)されることを言っている。「巨大さ」という観点において、ワーグナーの作品は限界に行っている(あるいは、人間が鑑賞するものとして限界を超えている)。

フンメルのピアノ作品(ピアノソナタ及びピアノ協奏曲)が後世顧みられなくなったのも、リストとショパンに同じ方向性で作品のスタイルを塗り替えられてしまったからだ。フンメルは、デッドエンドに到達できなかった。

シンプルさのデッドエンド

海外表現においても、ミニマルアートはワーグナーとは逆の方向でデッドエンドに到達している。一色に塗られた絵画は、単純さという面においてそれ以上が存在し得ない。

色の組み合わせを、増やしすぎるとミニマル・アートから外れて別のものになる。「これは、ミニマルアートとしては色が多すぎる」と批判することは的はずれである。なぜなら、ミニマルアートとみなすべきではないからだ。

フォーマット・スタイルにおけるデッドエンドは、良い/悪いの判断基準から外れて、基準そのものになる。デッドエンドとは言うが、デッドエンドは「始まり」でもある。なぜなら、作品Aは常にデッドエンドAとの差異・懸隔を見ると行った方法で鑑賞されるからだ。

比較対象の有無

二番煎じなる概念がある。先行者がおり、その先行者の作品と類似度が高いと思われたとき、芸術の面において、付加的な価値を生み出せていないと思われた時、先行作品の二番煎じだと言われる。

先行作品らしきものがまるで見当たらない作品というのは、私には考えられない。ピカソの作品にしろ、センセーショナルなアヴィニヨンの女はアフリカの美術を抜きに語れない。

アートワールドなる概念があるが、アートワールドを何がアートで何がアートでないか決定する集合的な権威だとすれば、これとは別にアートアーカイブなる概念も提唱できる。

ピカソの作品は、西洋美術のアートアーカイブからは新しい。新規性があった。ハンガリー狂詩曲なども、西洋音楽の面からすれば新しかった。

海外の音楽をないものとすれば、はっぴぃえんどは画期的だし、AK-69も新しくなる。

芸術史的な観点を捨て去れば、聞く人をリフレッシュさせられれば、聞く人が新しいと思えばそれで良いと考える方法もあり得る。

巨大さ・長大さ・複雑さと人体

プログラムやコピーアンドペーストを使えば別だが、絵というのは細かく描こうと思えばいくらでも描ける。

複雑さや巨大さが芸術的価値に直結しないが、絵というのは巨大であればあるほど、複雑であればあるほど値段は高くなりやすい。

ただ、ナイツ土屋が描いた馬の絵は、何年もかけて描いたが数万円だったりする。

例えばだが、素人が一生をかけて巨大で書き込みの多い作品を一人で描いたとする。いくらになるのかは分からないが、それなりの値段は必ずする。

時間をかければいいものができるわけではなく、「時間をかけた」と思わせる・信じ込ませることが影響する。

「自分は、作者がテキトーに描いたものをありがたがっているのではないか?」という疑念を限りなく軽減してくれるからだ。ラップバトルにおけるバイブスを、労働時間は担保してくれる。

ミニマリズム・ミニマルな表現の過酷さ

どのジャンル(音楽・美術・文芸等々)であれ、ミニマルな作品、構成要素の少ない作品は、判断がシビアになされる。

「これは、作者がテキトーに作ったものではないか?」という疑念を、なんの狙いもなく作られた作品ではないかという疑念を、ミニマル要素は強化する。

ミニマリズムは、コンセプチュアルでなければ見向きもされない。二番煎じでも作品は評価されうるが、ミニマルアートはそうではない。

差別化されてないと評価されないのは、ミニマルアートの創案難易度が低いためである。

剽窃という概念が存在しない世界

伝統芸能には、剽窃という概念が存在しない。逆かも知れない。剽窃及び独創性なる概念が存在しない分野を、伝統芸能及び民族芸術と評せられる。

師匠=伝統の体現者がおり、それを真似する・模倣することがゴールとなるようなオルタナティブなワールドがある。能・雅楽はもとより、演奏分野においては楽器は少なからずその面がある。パバロッティのように歌えれば、ハイフェッツのようにヴァイオリンを奏でられれば、それだけで評価される。

クラシック音楽の作曲の大変さは、今更バッハのような曲を書いても、その書くのにいくら技術の習得が必要だろうと、大して評価されない点である。

評価されるためには、独自性が必要である。ただし、人間が楽しめるものでなければならない。その両立が難しい。

ハンバーグのレシピをたくさん集め、小説と銘打って販売したとしよう。小説として評価される未来が私には見えない。

また、小説及び文芸は読者が「読める」ことを前提に作られている。字が読める。意味がわかる。そうでなければ、文芸作品としてのスタートラインに立てない。

難しいのは、「どれだけ独自的でも、聴衆にわからなければ意味がない」とテーゼを立てたとき、その聴衆は誰を指すのか曖昧なことだ。

専門家なのか、熱心なファンなのか、一般人なのか。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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