蝶番命題と演繹に関する短い考察

もし、可謬主義の視座・ポジションを徹底化させるなら、理論と仮説の区別はなくなる。「恒久的な有効性を保つ普遍的理論」と見なしうるような理論であっても、”間違い・誤謬である可能性はある”と可謬主義は考えるからだ。

よって、理論はどこまで行っても仮説である。

懐疑論者に対する反論と

可謬主義と懐疑主義は違うが、懐疑主義に対する反論は可謬主義への反論になりうる。

代表的なのは、蝶番命題。懐疑の対象から離れる命題である。例えば、私の生まれる前から地球が存在することなどを、ウィトゲンシュタインは「そこを軸にして命題が展開する」命題があると晩年書いていた。”蝶番”は後の命名である。

(そういえば、”自明”とは”自らで明らか”と敷衍することができて、英語にすれば”Self-evident”。evidentとは「(証拠などがあり)しっかりと明らか」だ)

昨日、私はアルチュセールの挿話と演繹法を絡めた文章を書いた。論旨は「演繹の大前提が間違っていれば、小前提が正しかろうと、正しい結論は得られない」といったもの。

そして、その論旨のロジックを組み替えると出てくる(であろう)結論

「正しい結論を導くためには、自明な前提=蝶番命題が2つ必要である」を導けるだろうか?

換言すると

「正しい大前提と正しい小前提によってしか、正しい結論は得られない」

ミュンヒハウゼンのトリレンマ

前提Aの根拠・論拠の前提の前提…と繰り返すと、無限後退を起こし、「確実」なものは何もなくなる。

ミュンヒハウゼンのトリレンマとは、そういった「知識」が直面する回避不可能な懸念を簡潔に言い表してくれている。

ここまで来ると、相対主義(価値相対主義)のフィールドにちょっと近づいて来る。そこまで論を展開できる力が私にはない。

(相対主義に関しては、入不二基義氏が「相対主義の極北」なる素晴らしい本を書いているので、読んで欲しい。私は内容は思い出せないが、楽しかったという記憶だけが印象として蘇っている)

正しいことを言うためには、いくつ…が必要か

私はそこまで懐疑主義的な態度はもっていないので、何もかも疑う精神状態を想像もできない。だが、気になることが1つある。

「正しいことを言うためには、前提が1つあればいいのかそれとも2つなければダメなのか?」

明らかに、演繹法を展開したければ前提が2つ必要である。ここから、演繹法以外の方法で正しいことは言えるだろうか?の疑問が派生する。

大変申し訳無いが、その命題(演繹法以外の方法で…)に今は答えられそうもない。直感でしかないが、最低2つは必要な気がする。前提が一つの命題から導かれる結論で、トートロジーでないものを想像しにくいからだ。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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