二元論と現実

“善悪一元論”は、どう考えてもおかしい。善悪と二元に分かれているのに、一元にしているからだ。

では、悪一元論あるいは善一元論ということは可能だろうか? それもおかしい。
(追記:善という概念は、悪とセットである。悪もまた然り)

ニーチェならば、善悪という二分法・排中律を認めず、力があるだけと言う。

しかし、力一元論にしたって、強弱という二分が出現する。変な話である。

ほんとうの一元論は、分割できるものであってはならない。裂け目があってはならない。

ここで、力に強いも弱いもないと反論できるかも知れないが、そうなると力という概念が冗談化する。

方角が東に統一されたり

メートルという概念が消えて全て「長い」と表現されることはない。

一元論 

全ては〜である。あるいは、全ての始原は〜であり、全てはその変形である。

これらを、一元論とする。

しかし、全ては〜である。というステートメントにも、強弱・大小・質の概念を導入し得る。

物質などは存在せず、全てはエネルギーであるとある物理学者が主張しているが、それにしてもエネルギーの濃いところ薄いところはあるのだ。

タンパク質という概念そのものに大小も強弱もないが、その濃淡な質はあり得る。

形式・パターン

ある作品がある。その作品の作者の知覚能力・認識能力は、鑑賞者である私と同じか、それ以上であることは、鑑賞の前提でなければならない。

作者が私以下であると認識してしまうと、作品が命題性を帯びる。上手か下手か見ながらフィクションを鑑賞しているとき、それはほんとうの意味でフィクション鑑賞ではない。

また、作者の信念体系も、ある程度読者と共通している必要がある。

地球は平らだと信じている人間が、地球の果てに行こうとするフィクション作品を書いたと想定されたとき、地球は球形だと信じている人間の作品とは、読み方が異なるべきである。

作品内の世界観とは、最初からあるものではなく、作品の語られる内容とともに、立ち現われるものだ。

ドラゴンボールの世界では死者が生き返るが、その世界観も最初から提示されるわけではない。

例外は、ゴシック小説やナーロッパものかも知れない。しかし、それらにしたって皆細かな世界観の相違がある。

一元論・二元論・フィクション

血まみれの手と、ナイフと、過去の前科、妻と毎晩口論していたことの証言、指紋鑑定、DNA採取。

これくらい証拠が揃っていれば、彼が殺人者であると私は確信できる。

原理的には、もちろん彼が殺人者でないことはあり得る。そういった世界は想像し得る。

しかし、私の意識はそう働かない。

高層ビルの屋上から飛び降りても死ななかった男はいるかも知れないが、たぶん自分は飛び降りたら死ぬだろう。

フィクションは、嘘と偽のフィクションではなく、信じているとか信じていないとか、その次元ではない次元がある。

美しいか美しくないか、あるいは面白いか面白くないか。

ツイッターで、いわゆる嘘松がときおり問題視されたり、バカにされたりするが、その嘘のエピソードが面白い限り、嘘か本当かどうかはあまり問題視されない。

言い換えると、面白さはノンフィクションの命題的側面を打ち消す力がある。

しかし、その面白さは、作者の力量不足や、頭のおかしさに起因してはならない。

また、フィクションがもしプロパガンダ、コマーシャル、訓話として読まれる限り、それはフィクションではなく、別の何かである。

命題論

“全ての言説は命題である”と、一元論的に説を展開できる。ただ、これはあくまでも擬似的な一元論だ。

“全ては命題である”ならちゃんとした一元論だが、全て、言い換えると「現実」に偽はない。ただあるだけである。全てが真と言い換えられる。

…真しかないのに、真と言えるだろうか?真という概念は、偽とセットなのに。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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