クソコンテンツの存在意義

ダイノジの大谷が、芸能界で「スター」になるのは、ツッコミではなく「ボケ」の性質をもった人間だとどこかで言っていた。
この文脈における「ボケ」というのは、ゴシップを量産する人物ではなく、なんとなくおっちょこちょいを連発する人、失敗を多くする人、変わり者といった意味により近い。
もちろん、「ボケ」でないとスターになれないわけではないが、「かわいげ」というのは、人気者によくある性質だ。「弱さ」と大きく重なる要素である。
物書きであるはぁちゅうの活動を追っている人は、少なくない割合で彼女のアンチだが、「ボケ」のスターというのは、そういうことだ。
愚者的消費
愚者的消費、あるいは「愚者として消費」という概念があると、メディアシーンがスッキリする。
田代まさし、清水健太郎、はぁちゅう、(かつての)キングコング西野、ホンマでっかの澤口先生、蛭子能収、カニエ・ウェスト。
みんな「ボケ」=「愚者」的な性質をもっている。もちろん、愚者であることは固定された状態ではなく、「賢者」として見なされることもある。(ここらへんは主観と客観などややこしいので、すっとばさせてください)。
仮に、人を「愚者」と「賢者」にわけたパターンにおいて
方法論的に、「人は『愚者』と『賢者』にわけられる」と、二項対立させてみる。もちろん、世の中の大半の人間は、中間である。
知名度があることはもちろん「賢者」の必要条件ではない。アホでも有名になれる。
(人はなぜ、ゴシップを楽しめるんだろう?)
自分から笑われに行ける人はすごい。賛同者が少しでもいればいいが、それが始まりの時点でいないと気力を削がれてしまう。僕にはできない。
クソコンテンツの存在意義
一時期、テレビでやたらと「オバカキャラ」が流行していた時期があった。島田紳助のクイズ!ヘキサゴンが発端だろうが……。
いわゆる”クソゲー”だとか”クソ映画”を自ら好んで見る人は、オバカキャラを見たがる人たちと全く同じだと個人的には思っている。こちらのアーティクルでは、いわゆる”クソ映画”を見る人達は、教育水準が高く、文化的に好き嫌いがないと好意的に述べられているが、なんてことはない、ようは「ほんとうのバカ」を見たいだけだろう。
飲食店などでは、わざとツッコミどころのあるポエムを店に載せたりして、SNSで拡散されることを計画したりするが、そういった手法を映画界も巧妙に取り入れて欲しい。
「ほんとうのバカを見たい」「ほんとうにつまらないコンテンツを見たい」「ほんとうに才能のない人を見つけたい」
しょうもない営みだ。「この映画の作者は、すべて計算づくだ」と卓越性を無理矢理にでも見つけていく方が、よっぽど人生は豊かで楽しい。
笑ったら引退
クイス!タレント名鑑のプロデューサーである藤井健太郎が、「コウメ太夫で笑ったら即芸人引退」という企画をやっていた。
前言撤回するようで申し訳ないが、私は「コウメ太夫は、すべて計算づくでネタを作っている」とは流石に思えない。…作者の技量がどうしても認められないとき、私は「この作者は自然だ」と思うことにしている。自然には、作為もなければ意匠もない。ただそこにあるだけであって、そこに物語やデザインを見出すかどうかは、鑑賞者の技量・信仰次第である。
ピコ太郎
音楽評論家である柴那典が、「日本のヒップホップシーンはツッコミが強すぎて、自らピコ太郎になろうと言う人がいない」と、ここで語っている。
さっそく反論するが、日本のヒップホップ版のピコ太郎は、「SOUL’d OUT」だろう…あるいは、”だった”。ソウルドアウトには、AK-69などと違って、イカつくなく、暴力の香りがあまりせず、”可愛げ”とマスコット性があった。…引退が惜しまれる。

是非フォローしてください
最新の情報をお伝えします