概念としての、悪口としてのイージーリスニングとは何か

イージーリスニングなる音楽ジャンルがある。
“ジャンル”と言っても、たとえば”クラシック音楽”なるワードは音楽の形式・使用楽器及び発祥地域などを鑑みて分類されている。”ロック”なる音楽のジャンルは使用楽器に依存して概念が形成される。
イージーリスニングなる”音楽ジャンル”の不思議さは、使用楽器や地域性などに囚われないことである。
イージーリスニングという概念
クラシック音楽の交響曲のアダージョだけをまとめて「アダージョ集」としてパッケージ化する例がある。
アダージョとは”スローテンポ”程度の意味でクラシック音楽の上では扱われている。
これらのパッケージは、イージーリスニングと見なせる。イージーリスニングなる概念が生まれる前にアダージョだけを集める試みは存在したろうが、それらも実質イージーリスニングに分類しうる。
イージーリスニングとは、用途である。サウンドに特徴は抜き出せるだろうが(急なフォルテや激しい三連符がない)、用途であり、受容・消費のされ方だ。
“ヒーリング”や”癒し”はイージーリスニングの類似概念と見なせるが、イージーリスニングなるワードは「あなたの心を妨げません」なる否定系の文章である。
(「心を煩わしたりしません」「作業の邪魔をしません」)
ヒーリングなるワードは、イージーリスニングよりも志が高い。「あなたを癒します」と言っているのだ。少し宗教チックである。
イージーリスニングという悪口
前見出しで紐解いた「イージーリスニング」の概念から応用された用法が、悪口としての「イージーリスニング」である。
以下、悪口としての「イージーリスニング」のレッテルを貼られる作曲者群
武満徹(特に後期)
尹伊桑(特に後期)
ドビュッシー
アルヴォ・ペルト
「クラシック音楽だとか現代音楽だとか、ありがたいものとして扱われているが、その実イージーリスニングではないか」と批判する者たちがいる。
言いたいことは分からないでもない。前述の作曲者の作品は形式性がうすく、音楽がただ流れるようにして響く。つまり、メロディや音階・リズムが繰り返されないため、鑑賞者はただ身を任せて音楽作品に望めるのだ。
(イージーリスニングの対局にいるのは、ベートーヴェンだろう)
イージーリスニングだ、なる批判には、「(これこれの作品は)形式性がなく、中身がない。ただ美しいだけである。ただ快いだけである」そして「音楽は、ただ美しくあったり快くあってはならない」なる価値観の表明を内摂している。
私の反論は、「ただ美しいだけの音楽。ただ快いだけの音楽があっても良いではないか」である。私は音楽に限らず、色んなバリエーションを楽しめれば良いと思っている。
また、テイストの異なる作品を一つの概念で説明しようとするのも良くない。作曲者の苦労が浮かばれない。
映画音楽という悪口
関連する話題として、「映画音楽」にも触れる。
悪口としての「映画音楽」は
「クラシック音楽と銘打ってるけど、中身がないただのこけおどしだ。これは映画音楽だ」
ラフマニノフや吉松隆がよく言われる悪口である。
「中身がある音楽ってなんなんだ」と私は思うが、映画音楽みたいと言われるクラシック音楽作品はおしなべてオーケストレーションが豪華で、美しいメロディに満ちている。
つっかえつっかえであったり、不器用さや下手さ、ぎこちなさを「精神性」なるワードで聖化せんとする意志が何に由来するのか不思議に思っている。
「竹原ピストルよりはビートたけしより”上手く”歌うけど、たけしの下手な歌の方が気持ちが伝わる」の類の感想。
人はなぜ「拙さ」に感動するのか。
拙さや不器用さ、ぎこちなさがアナロジカルに鑑賞者の精神に作用しているのだと私は思っている。人生は大抵うまくいかない。予定通りいかない。「はい」と「いいえ」を同時に、肯定と否定の感情を抱くこともある。人間の感情はモノトーンではない。人の性格も本来は記号化できない。そういったもののアナロジーとして、作用する営み。

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