有名になりたいから犯罪を犯す人はいない

ニュージーランドのクライストチャーチで銃乱射事件を起こしたBrenton Tarrantは、一般的な犯罪者と違い自らの犯行をFacebookでストリーミング配信した。
隠すのではなく、情報の拡散を求めたように見える。
クライストチャーチの乱射事件主犯であるTarrantの場合は、明確なマニフェストがあった。白人の主権を取り戻すだとか、イスラムは危険だとか云々。
Tarrantが何を本当に考えてあのような凶行に及んだのかわからないが、彼が有名になりたいだけではないことは分かる。
「有名になりたい」と願っている人は多いが、それらを実行にうつす人は少ない。
有名になるだけなら簡単である。犯罪を犯すか、実名と顔をさらして変態趣味をさらけ出せば良い。
しかし、人はそんなことをしない。
酒鬼薔薇聖斗と絶歌
神戸連続殺傷事件の犯人である少年Aが本を出版した。私は読んでいないが、なかなかに陳腐な内容だったようだ。
既に少年Aは社会復帰しており、おそらく通常の仕事についている。金欲しさに本を書いたのだろうか?
もちろん印税も本の出版の目的の一つであったのだろうが、金が欲しいなどの俗な願望しか抱けない人間が児童を無差別に殺傷するだろうか?
力の誇示、卓越した存在として思われたい願望がどうしても透けて見える。
つまようじ少年事件にしろ、有名になりたいだけならもっと最適解があったはずである。社会のルールに屈しないタフな自分と思われたい願望が透けて見える。
ラディカルに、「有名になる」ことだけを人は追求できるのか?
悪名と名声と知名度
知名度がニュートラルな状態だとすれば、悪名は社会的に悪に準拠した知名度であり、名声または美名は社会的な善に準拠する知名度である。
悪名だけをひたすらに求める=いかに悪なる存在であるか追求する人物とはいかなる人物だろうか? ブラックメタルのバンドが実際に人を生贄にする黒魔術の儀式をしたことがあるらしいが、そんな彼らも親子供を生贄に捧げていない。
難しいのは、社会的に悪とされることの多くは刑罰が用意されていることである。全財産の寄付を制限する法はないが、殺人はたった一人であっても罰せられる。
「有名になりたい」という願いと犯罪・悪名は相性が悪い。最適化された行動とはみなし得ない。
悪名の属性で世界一有名なのは間違いなくアドルフヒトラーだが、彼はユダヤ人の虐殺を正義・良心から実行していた節がある。
悪なるものとして認知されたい人は存在したのだろうか?
ジェフリー・エプスタインは無人島に女性を監禁して、都合のいいように扱っていた。それに加えて、無人島の建物を悪魔崇拝の模様でかたどっていたらしい。
エプスタインは、自ら進んで悪と罪にコミットした人物として挙げられるかも知れない。
ただし、有名になりたいが故に、死後の悪名を広めるための行為だったかどうかは分からない。
知名度と犯罪の相性の悪さ
有名になりたい人であってもそうでなくても、刑罰は平等に適応される。
犯罪行為の厄介な点は、事業(?)継続の難しさである。日本一有名な三億円事件の犯人にしろ、個体認識がされていない。
自分=作者ではなく、作品=成果が有名であればそれで良いと思えれば納得できるだろうが、覆面作家のままとどまり続ける例は沼正三のほか知らない。
悪名の分野で個体認識をされるためには個人情報をさらけ出すよりほかないが、そうすると逮捕されてしまう。知名度は獲得できても、残りの人生は牢獄に繋がれる。
それでも良いと思える人は限りなく少ない。「有名になりたい」なる願望は、「賞賛を得たい」「名誉を得たい」願望がなんらかの理由ですり替わったものではないかと思う。
有名であるが故に有名であるリアリティ・ショーのキャスト
リアリティ・ショーのキャストのほとんどは、なんら特筆すべき点がない。大家族であるだけだったり、男女で共同生活をしていたり、国際恋愛をしているだけであったり。
リアリティ・ショーのキャストは有名であるが故に有名であり、注目されているが故に有名である。
逆に、「名前を知っているだけの芸能人の言動・スキャンダルに、人はなぜ興味を持つのか」と疑問が浮かび上がってくる。
カーダシアンズのメンバーで世間から尊敬されていメンバーはいない。そして、見知らぬ遠い国の人物の死より、知人の死の方がより悲しいのはなぜなのか。
人はなぜ有名になりたいのかという問いに突破口があるとすれば、見知らぬ者の経験・出来事よりも知人の出来事の方が、無名の芸能人よりもよく知られている芸能人のゴシップの方がより関心を集めるのか分かることだろう。

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