人はフィクションとノンフィクションを区別できているのか

フィクション(今回は”作り話”程度の意味)に、なんで人間は感動できるのか。考えてみれば不思議なことだ。なぜなら、それは作り話だからだ。

感情の起源として、「感情の発現により、人間は情報を効率的にまとめることができる。また、恐怖という感情は、人が危険を犯す可能性を減らせる」うんぬんの説明を聞いたことがあるが、この説明だけだと、なぜ人が作り話だと分かっていても、それでもなおフィクションに鑑賞者の感情が動かされるのか説明がつかない。

人は、フィクションとノンフィクションを区別できない

私は小説が好きで、高校時代から好んで読んでいる。しかし、ある日友達が、「小説とか嘘やん」と私に言った。

つまり、この友人は「どんな悲劇だろうと喜劇だろうと、ドラマティックだろうと美しかろうと、所詮はこしらえものではないか」と問うたわけである。

(勝手な解釈だが、私はそう受け取った)

一理あると思う。

ネットの一部界隈で有名な、スト様のコピペなどを見てると、架空の人物の死に過剰に悲しむ人には正直同調はできない。

しかし、スト様のコピペに感動できない私であっても、好きな登場人物が死んで、寂しさを覚えるのは確かである。…

この寂しさの正体は、なんだろうかと思う。

これは、人間がフィクションとノンフィクションの区別ができないため発生しているのだろうか?

世界観

「登場人物の死」に想いを馳せるとき、いつも思い出すのがドラゴンボールと魁!!男塾だ。

上記二つの世界では、死が我々の世界の死ではない。ドラゴンボールの世界では、ドラゴンボールを7つ集めれば死者を復活させられるし、男塾に至っては、死んだことがなかったことにされる。しれっと先週死んだはずの男が、そのまま復活(?)している。

タッチの世界における死の概念、あるいは感触は、ドラゴンボールと男塾の世界における死の感触と懸隔がある。タッチの世界では、死者は蘇らないし、語らない。

スト様の死を嘆き悲しんだファンの方も、死者が蘇る世界なら、それほど悲しまなかっただろうと予測できる。

ここで少なくとも我々は、フィクション内における世界設定・世界観が我々の鑑賞態度に影響していることが分かった。


虚構的真理

有名な、虚構的真理の理論を援用できるだろう。我々は、虚構的真理として、ごっこ遊びとしてフィクションを受容しており、そのルール内で喜怒哀楽を感じているといったもの。

つまり、虚構的真理論者にとっては、人はフィクションとノンフィクションを区別できていると見なせる。区別できていると言うと語弊があるので、人間にとって、フィクション/ノンフィクションには、区分・線引きがあると言った方が良いだろう。

シミュレーション仮説

我々には想像力がある。他人がどう考えているのか、そうぞうすることができる。この「他人」をフィクション内の登場人物に当てはめれば、それはそのままシミュレーション仮説になる。

また、「かつて実在すると信じていた人物を通し、フィクションに感動する」といったこともできる。かつて、現実世界でも他人の死を悲しんだことがあり、フィクションにおける死は、その現実世界の死の悲しみを連動してしまうといったもの。あるかも知れないと思う。

ここで疑問なのだが、現実世界では他人の死を悲しまない人物が、フィクション内の人物の死を悲しむことはあるだろうか?これもありうると思う。

フィクションのパラドクス

有名な、フィクションのパラドクスを引用しよう。

  • 命題1 感情を抱くためには、その対象が実在している(と、鑑賞者が信じている)必要がある
  • 命題2 鑑賞者は、フィクション内の人物に感情を抱く
  • 命題3 鑑賞者は、フィクション内の登場人物が、実在するとは思っていない(信じていない)

命題とは、真(正しい)のか偽(間違っている)なのか、判別できる立論を指す。フィクション論で有名なウォルトンは、我々はフィクション内の人物に抱く感情は、我々が生きた人間に抱く感情とは区別しうると考え、それを「ごっこ遊びの感情」だとした。

たとえ虚構であっても、人は強い感情を抱くことが出来る。おにごっこの最中に、一喜一憂した子供のころを思い出せば分かる。

ここで思い出すのが、誰かが言っていた「ホラー映画が怖くなくなる方法」である。

「どんなホラー映画であっても、それを作った人がいることを想像すれば、恐怖は薄れる(あるいは、霧消する)」

「フィクションの作者を想像すること」あるいは「作者が人間であること」=(作者が誤りをおかしうること)は、フィクション論におけるキーポイントである。小説で日付け間違いが発生したとき、それを計算ととるか、作者のミスととるかで小説は大きく変わってくる。信頼できない語り手なのか、それとも作者のミスなのか…。

フィクションには前提がある。それは、「フィクションとして作られた」ことだ。これが仮に、後々「これはフィクションではない」ことが発覚したとき、小説として読まれてきたものが、手記であったと発覚したとき、闘病記なら感動が増すだろうが、もしもそれが暴力的なポルノなら、ただの胸糞の悪い犯罪記録になる。

「ごっこ遊び」は、現実の模倣ではなく、ノンフィクションとは違う原理で動いていると見るべきだろう。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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