ホラーの実作者を考えながら見れば

本題と関係ない話だが、「今から大切な話をします」と前講釈を垂れ、その後に「架空の街のタウンワークに乗っている住所」を述べて講演が終わったとする。それ話は「大切な話」だったのだろうか?

ともあれ、今から大切な話をします。

実作者とホラー

実作者と作品は、ゼロサムゲームではないのかという奇妙な考えに、昨日から捕らわれている。我々は、実作者の試みを想定しながら、作品世界(虚構内世界)に没入することはできないからだ。

ホラー映画の制作陣のテクニック・工夫を想像しながら、ホラー映画を怖がるといったことが可能だろうか?不可能だと私は考える。

実作者の工夫を見るとは、そのホラー作品が虚構であることを前提としている。人は、ウォルトンの言うように、虚構であることを重々承知で作品を楽しめる。

ホラー映画を、「作者の工夫」を探しながら見るという鑑賞方法は、何かを差し出している。少なくとも、没入はしていない。小説を読むときだって、一般読者は「実作者」の存在を頭の中から消している

「実作者」を想定するとは、何か? それは、作品を記号的に再構成せんとする試みだと言えるかも知れない。主人公の属性・境遇を、記号的に分解し、そこに付加している意味を引き剥がす。意味及び感情を、物語から引き剥がし、シーンとシーンの連結に、スキマをいれることだ。

そこに見られるのは、コンテンツの情報化=意識化=可視化だろう。なんとなく怖いものを、なぜ怖いのかと構造を見ようとすること。

ゼロサムゲーム

AIが書いた作品もあるらしいが、例外を除き、小説とは少なくとも一人の人間は制作に関わっている。

昔、大学の授業で提出した短いストーリーの登場人物を、私自身と見なされ叱られたことがあったが、あのとき発生していたのはなんの事態だったのか今でも疑問に思う。

美学的観点からみることと、美的対象として見ること。

美学的観点あるいは美学は、作品を見る「わたし」に対する内省及び反省がなければ発生しない。そして、恐怖とは常に未来の側にある。未だ到来していない、そして来るかも知れない私にとって望ましくない出来事が、恐怖の対象である。

美学的観点からホラーを見てしまうと、そこには「恐怖」として現れるべきものが、恐怖ではなくなってしまう。それは、ウソだと認識してしまうから楽しめないのではなく(我々は、ホラー映画が作り物であることを重々承知している)、それが喜びになってしまうからだ。

ジェイソンが、どう人を殺すかワクワクして映画を見たとき、そこには恐怖が発生しない。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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