批評ターム「初期衝動」の胡散臭さ

ロック・ミュージックとパンク・ミュージック(特にパンク)を語るとき、「初期衝動」なるワードをしばし見る。

最初は何を意味しているのか分からなかったが、「下手くそなりに、頑張って音楽をしている。下手くそであっても、臆せず演奏しようとする」バンドを称賛する言葉だと気付いた。

疑問なのだが、超絶技巧で知られているバンドが、リズムもハーモニーもガタガタなシンプルな曲を発表したとして、「初期衝動を取り戻した」と言われるだろうか?

子供の絵を褒める大人たち

つまるところ、そうである。「初期衝動」とやらを褒める連中の眼差しは、子供の絵に「無垢」だとか「絵を描く純粋な喜び」を見出す眼差しと似ている。

彼ら(大人たち)は、ウソをついているわけではない。ほんとうにそれらの構図もパースもバランスもない絵を楽しんでいる。

大人たちが忘れているのは、子供は無垢なのではなく、単にアホなことである。子供は構成や色彩を気にせず絵を描いているのではなく、直感に大いに頼り、当人にはちゃんと理屈の上で絵を描いている。その理屈を説明できるかどうかはともかく。

あの初期衝動を褒める仕草が嫌なのは、その言説が怠慢な自己肯定に聞こえるからだ。

「子供の絵が最高である」というのは、人は幼少期に芸術的絶頂期を迎え、時間を経るごとに先細っていく芸術観の表明だ。これが怠慢さの肯定でなくて、一体なんなんだと思う。

フジ子・ヘミングと相田みつをの共通点

昔、自身のTwitterアカウントで、相田みつをとラッセンとフジ子・ヘミングを、共通点が見受けられると呟いた。

その時考えていたのは、三者とも専門家や熱心なそのジャンルのファンには酷評されているが、一般人気が高いこと。三者とも”深み”がないと見なされていることなどである。

しかし最近、相田みつをとフジコ・ヘミングは同じタームで語れるかも知れないが、ラッセンはそうではないかと思うようになった。

なぜそう思うようになったか?

一言で言うと、相田みつをとフジ・ヘミングは下手だが、ラッセンは下手ではないからだ。

ラッセンがアート界からすこぶる評判が悪いのは、ラッセンの絵が下手なのに素人から上手いと思われているからではない。

ラッセンが批判されるのは、絵画の一元的な能天気すぎる(と、見なされている)楽園のイメージからである。売り方への批判も影響しているだろうが、批評家は作品とその売り方をちゃんと区別する。

ラッセンの絵は下手ではない。むしろ上手い。その上手さは、素人にもわかりやすい「書き込み量の多さと、正確さ」で示されている。

フジコヘミングと相田みつをには、素人目からも分かる上手さは示されていない。この二人に共通するのは、ロック・パンクの演奏に、初期衝動を見出す我々の眼差しである。

相田みつをに至っては、わざわざ下手に文字と言葉を連ねている。フジコヘミングはまだ、ほんとうの素人よりも高みの技術を見せてくれる。

フジコヘミングの演奏を評価するとき、「指が回るだけが、いいピアノじゃない」だとか、「それまでの人生が表現されている」「深みがある」だとか、訳の分からない賛辞が並ぶ。

若い新進気鋭のピアニストが、フジコヘミングの演奏を再現したとする。そのとき、フジコヘミングを評する際に用いられていた賛辞の言葉は、同じように当てはめられるだろうか? そんなわけはない。

世の中の大半の人は、達人になれぬまま人生を終わる。しかし、本人が気付いていないだけで、実は人生の真実を見つけており、それを思い出すだけで良いのだというメッセージを、フジコヘミングと相田みつをは与えてくれる。

ラッセンがやっていることは違う。ラッセンは、楽園を切り取ってあなたに見せてあげているだけだ。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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