「ジャンルの死」概念はどこから来るのか

ロラン・バルトが「エクリチュールの零度」において、小説(文学)表現が19世紀に確立し凝結し、マラルメがそれを殺戮した、言語の破壊に向けられたと語るとき、最初は何を言っているのかよくわからなかった。

なぜなら、文学はあいも変わらず刊行され続けてるし書き続ける人がいる。終わってるとはどういうことだろうか。

「もう新しい表現・スタイルが存在しない」というのなら分かる。19世紀に文学表現は爛熟を極めてしまっている。そして、「もう新しいものがない」ことを「終わり」というのは、私にとって色んなステップを跳躍しているなと思える。

「ジャンルの終わり」と、ある種の進歩史観

「歴史の終わり」と言い換えても同じことだが、「ジャンルの終わり」を言い触れ回る人にとって、歴史(ジャンルにとっての)は進歩の歴史である。進歩史観と言い換えても良い。

少し話はズレるが、盤上ゲームの「終わり」は先手必勝か後手必勝か判明したときだろうか? マルバツゲームは先手必勝であると小学生にころにみんなわかって、そうなると誰もマルバツゲームをやらなくなる。だが、マルバツゲームは消滅していない。まだやっている人がいる。

たとえ未来に、将棋が先手必勝なのか後手必勝なのかわかったところで、人間にそれを覚えきる力がなければ終わってないと言えるだろうか。だが、プロ棋士が対局している間、それおを見ている視聴者が高性能なコンピューターで最善手を尽くしているか判断できる未来が到来してしまえば、将棋はずいぶん寂しい領域になる。

話を戻すが、「ジャンルが終わった」と人がいうとき、そこには「最善手が見つかった」「当該のフォーマットでの、最適行動が見つかった」「パターンは出尽くした」なるニュアンスが込められている。

しかし、見つかったとことでどうなんだと私などは思う。新しいことをしなければならないのか? 同じことをしても良いではないか。

そうではなく、「創作者は、新しいことしなければならない」「伝統の継承を目的としなければならない」これらを前提としたとき、初めて「ジャンルの終わり」「ジャンルの死」なる概念が出てくる。

伝統芸能がアートワールドのコンセプトから外れるのは、「アート」概念の目的とする「創作」から外れるからだ。伝統芸能においてはまずレシピ=設計図が存在し、そのレシピから過去を再生産しなければならない。

小説における伝統・目的・民族の不在

コンテンポラリークリスチャンミュージックも一枚岩ではないが、概ねシンプルで、歌手と聴衆が共に歌えるように設計されている。一般的なポップソングよりもシンプルである。

ルネサンスーバロック時代に発展した多声様式の影は見るべくもないが、ポリフォニー様式だって「歌詞が聞き取りづらい」などの理由で教会の権威から禁止される憂き目を被ったりしている。

いずれにせよ、「神の栄光を讃える」あるいは「神の言葉を表現する」などの目的が存在し、その目的のゆえにドミナンス理論やらポリフォニーの理論=禁則が生じた。曼陀羅が涅槃の表現であるように、教会音楽は神及び聖書の内容を伝えると言う目的・プリンシプル・憲法のようなものがある。

憲法とは、ルール=法律を作る際に反してはならない原理である。

小説・文学は、教会音楽やダンスミュージックが把持している「〜のための」なる目的を導き出せない。小説を読むこと以上の目的がない。

憲法として浮かび上がってくるのは、娯楽性あるいは芸術性なる非常に曖昧なものである。哲学ならば真理という極北を設定できるが、小説は真理を追求するために製作されるわけではない。

聖書の絵巻物として制作されたミケランジェロの壁画にしたって、信仰のないものであっても鑑賞できる。何のために? 科学者ならば脳内物質の報酬を得たいがために、人はなにかを鑑賞するのだと喝破するだろうが、ではなぜある作品は人の心に刻まれ、他の作品はそうではないのか説明がつかなくなる。

戦争賛美の絵画や小説などは後年、ほとんどがプロパガンダに過ぎないと省みられることがなくなった。だが、ショスタコーヴィチの作品やマヤコフスキーの詩はずっと鑑賞され続けている。私には、その理由がわからない。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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