それでもクラシック音楽は高尚な趣味である

東浩紀の受け売りだが、快楽には後からドカンとくる快楽と、短いタメからくる快楽がある。
クラシック音楽が高尚なのは、その気持ちよくなるまでのソフトランディングの長さにある。
30分だか40分、場合によっては一時間や三時間を超える作品が、クラシック音楽界にはざらにある。
40分を超える作品の中に、主旋律と対旋律の複雑なドラマがある(ない場合もあるが)。
我慢強くなければ、気持ちよくなるまで耐える、焦らされることを経なければ、クラシック作品の多くは聴けない。
下品な表現だが、普通のまぐわいよりも、SMプレイの方がレベルが高い。
そのくらいの意味で、クラシック音楽は高尚である。
長い曲も高尚である
(「高尚である」とはどういうことなのか、それはカッコの中に入れてください)
クラシック音楽の作品の皆が、40分を超えているわけではない。ピアノ独奏曲などでは、2分程度のものも少なくない。
また、ポピュラー音楽(ポップス・非クラシック音楽・非民族音楽)のなかにも、40分超えは中々ないが、10分を超える曲はたまにある。8分程度は珍しくもない。
2分のクラシック音楽と、5分のポピュラー音楽、どちらがエラいか。
5分のポピュラー音楽である。ただし条件があって、それはドラムのビートが入っていないこと。
ドラムはメロディを奏でられないのに、なぜあんなにも頻繁に登場するのか。前から色々考えていたが、2つだけ断言できることがある。
- どういった曲なのか、メロディの前に予告できる
- 曲のドーピング
メロディ・あるいは主となるメロディの前にドラムでビートを刻めば、「今からこういう曲をやりますよ」と予告できる。
そして2つめの「ドーピング」だが、これはどういうことなのかと説明すると
「人は、打楽器のビートを心地よく思うように作られている。よって、曲の中でビートを刻めば、メロディがどれだけ凡庸でも、ビートで人は心地よくなる。結果、曲の印象が上がる」
クラシック音楽は、例外はあれど曲中全面的なドラムビートの継続を良しとしない。慣習に依るものも大きいだろうが、ビートではなく、メロディAとメロディBによる曲の構成を志向しているイデオロギー故にである。
ビートに頼らない音楽は、高尚と言っていい。トランス的な快楽を志向していないからだ。同じ理由で、スティーブ・ライヒは高尚ではない。ミニマル音楽の価値は、作品の内容ではなく形式に強く依拠している。
(そのフォーマットであれば、先達作品と同じような効果を得られる)
歌詞がなければ高尚である
2分のピアノ独奏曲と、8分のヴォーカル付きポピュラー音楽とでは、後者のほうが高尚である。だが、2分のピアノ曲と、2分のヴォーカル付きポピュラー音楽とでは、前者の方が高尚だ。より位が高い。
なぜなら、歌詞のない曲を楽しむためには、聴いているものが自分で曲を脳内で構成しなければならないからである。
歌詞・言葉というのは、外国人でもない限り、考えるまでもなく意味がリスナーに届けられる。ビートと同じように、言葉(意味)というのは、人間に思考を強制する。その時点で発生するのは、広義の物語である。
初めと終わりがあるものを、意味を伴った状態から初めを聞かされてしまえば、人間はどうしても聴いてしまう。人間の習性をハックした上で成り立つ芸術に、そうでないものの同じ位格は与えられない。
聞くための曲であれば、高尚である
シュトラウス一族は多数のワルツを作曲したが、元は踊るための音楽だ。今でもワルツで踊る人たちはいるが、現代ではもっぱら演奏会用の演目になっている。
演奏会用の曲だろうと、作業用BGMだろうと、踊るためであろうとなんだろうと、作品自体に「非観賞用」の性格を埋め込むことはできない。
作曲者が室内で聞くための音楽を、クラブミュージックとして流すこともできる。ナイフは料理に使えるし、悪いことにも使える。
「何かのための音楽」よりも、「その音楽を聞くために聞く」消費のマインドによって消費されたとき、その曲は高尚ポイントを獲得する。
同じく、ライブで騒ぎたいから、ダイブしたいからライブに参加するというのは、一段低い。

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