読者の(心象)原風景

(文芸)批評とは、外れ値でしかない個人の妄想≒創作を、あたかも現象であるかのように扱うことかも知れないと思っている。

まず、文章≒言葉は物理現象ではない。この世界・宇宙では、起こり得ないことは起こらない。同語反復になるが、存在できないものは存在できないからだ。

文章及び文芸作品等では、「円形の三角形」などと書ける。書けるからといって、それ(事物)が存在可能であることは意味しない。プログラミングなら、デタラメは機能しないのだが……。

あたかも作品が有機物・機械・現象・歴史であるかのように解釈する。聖人君子が伏線なく大量殺戮できるのが虚構作品なのに。

行間と観測不可能なもの

「メロスは激怒した」と記述があったとき、メロスは激怒しているんだろうなと、それを前提にするのが通常の立場※である。

(※信用のできない語り手

小説内世界にメロスという人物がおり、彼が行ったこと、言ったことは実際にあったこと。神の視点=三人称なら通常そうなる。

…人間ニンゲンという語は、本来ジンカンと読み、世間を指す言葉だった。江戸時代あたりからニンゲンと読まれはじめ、ヒトをさす語とった。誤用(あるいは転意)に近い用法だが、人は観察されねば存在しないのと同じである。だから、人間ニンゲンが人を意味するのはクレイジーではない。と、漱石枕流の故事のごとく強辯してみる。

しかし、批評家だってその批評を読む人らが存在するからこそ、あのように重箱の隅をつつくような読み方をするのである。また、感想は人の数だけ存在して良いのだ。私はそのような立場をとる。

批評は精神分析と比較されたりもするが、精神分析の対象は、歴史上の人物でない限り、ナマモノである。臨床分析は、その分析行為そのものが対象に影響を与えてしまう。観察者効果である。

その点、映画だとか小説だとかは、どれほど分析しようと対象=作品はそのままだ。

わたしはなぜ感動しているのか

作品の批評は、その作品それ自体の分析ではなく、あくまでも「それを読んだ《私》の分析」になる。個別の作品論ではなく、類型化して批評することもあるだろうが。

私は何に感動しているのか、憤っているのか、その他の感情、心理。一般読者なら流れて戻ってこないようなものを無理やりに批評として構築する。

そこには、取捨選択がある。情報を無視できる。だから、作品はただそこに世界のようにあるだけだが、批評は常に査読・裁判にかけられ得る。

私はこう書いた と 私はこう読んだ

作品の良し悪しは、作品そのものの分析からは導出されない。あたりまえだが、比較からしかデキフデキは判断され得ない。

他作品との比較は、その作品の批評ではないのだ。人間には不可能な読み方だが、比較を厳密に実行すれば作品は不可視となり、差異しか浮かび上がらない。比較の際に見えるものは、比較対象との差異である。

(小泉構文みたいになってしまった)

しかし、幼児・年少者でもない限り、読者は少なからぬ作品に既に接触しており、それらが積重して読者の心象原風景となっている。

読者の(心象)原風景

読者の心象原風景。心象を省略し読者の原風景としても意味は同一である。

それは意識的・無意識に作用する尺度である。読者の原風景が光源となり、作品は常に照射・曝露される。

前段で私は「他作品との比較は鑑賞と言えるかどうか怪しい」といった主旨を述べたが、もしかすると人は、最初に触れるモノ以外鑑賞できないのかも知れない。

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桜田真助
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    平成大阪生まれ。Webライターとして活動中。仕事の依頼等はTwitterにお願いします。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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