「影響力」及びパイオニアの独創性に関するあれこれ

Fateの世界では、その英霊が生まれた年代が古ければ古いほど強い(傾向がある)なる設定がある。

死に設定あるいは物語を盛り上げるためのフック(敵に強敵感を出させるための)と考えた方がしっくりくるが、このFateの設定は「影響力」なる曖昧なものを考える際にヒントになる。

その人が生まれていなかった未来、あるいはその行動、そのような活動を行なっていなかった未来、例えばドストエフスキーが小説家になっていなかった世界線があるとして、今ある世界はどんな感じだろうか?

「ドストエフスキーが小説家になっていなかったら、日米戦争において日本が勝利を抑えていた」とは考えづらいが、ロシア語およびロシア文学を学ぶ人数はガクッと減っている。

また、このトピックと並行して「その人にしか創られなかった作品」は存在するのかどうかも考える。

その作品はその人によってしか書かれなかったか

バッハの作品・業績が後の時代に再発見・再発掘され尊ばれるようになったのは偶然ではない。勘違いすべきでないのは、バッハなる天才が一人いて、偉大なる作品が全て書かれたわけではないことだ。

パッヘルベルやブクステフーデ 、及びルネサンス音楽などの音楽上の研究があり、バッハはあのような作品が書けた。

同世代の流行や作曲様式に惑わされなかったし、バッハの作品がテクストとして、教科書として使われ続けたことは確かである。

そして、バッハの存在がドイツ音楽を形作ったことは確かであり、バッハの影響力の大きさは無視できない。

その人が生まれていなかったら、あるいはその道を歩んでいなかったら

カルロ・ジェズアルドなる作曲家がいる。バロックより前の、ルネサンス音楽の人である。

彼は時代を先取りした半音階進行のマドリガーレを作曲したが、彼が評価されるのは死後二百年も経ってからだった。

おまけに、ジェズアルドはバッハが再発見されるようにしてテクストとして後の世代に影響したわけではなく、ロマン派以降で用いられた表現が「実はルネサンス期にこのような前衛的な作曲家がいた」と、なかば忘れられた車輪の発明家(車輪の再発明)として見つけられたに過ぎない。

(オーパーツなるものは、まずそのオーパーツの発明が忘れられなければオーパーツになれない)

ジェズアルドの影響力は、非常に限られたものである。バッハやベートーヴェンと比べて。

中国にいながら、独立して数学の定理を発見した人物が何人かいるが、ジェズアルドの置かれた状況はそれに似ている。

ついでに言っておくが、ディラッソも古代中国で数学の定理を西洋人よりも早くに見つけた人だろう

必然的に生まれるか

数学教育かラマヌジャンを生んだわけではない。もちろんラマヌジャンが孤立した部族に生まlkkたとして、彼の数学的発見はなされなかったろうが、天才は環境関係なしに生まれる。

キルギスのような総合格闘技の練習環境が揃っていない地域でも、ヴァレンティナ・シェフチェンコというチャンピオンを輩出した。

叙述トリックや「信頼のおけない語り手」、「意識の流れ」など、文学的な技巧はその人が見つけなくともきっと誰かが見つけている。

しかし、その人がその時点で見つけたなる経緯は、歴史の点としてピックアップできる。

新しく何か手法らしきものを見つけた人を我々は尊敬すべきである。だが、「早く生まれただけの人」「早く見つけた人」とそうでない人は区別すべきだ。その区別をどうするかは私の力不足ゆえ答えられない。すまない。

悲しいのは、早くに見つけすぎるとジェズアルドやベートーヴェンの後期の不協和音モリモリの弦楽四重奏曲のように、ずいぶん期間が経ってないと「理解」されないことである。

話がガラッと変わるが、YouTubeのコメント欄にはありきたりな定形ジョークがある。

またそれは上位に上がってきやすい。これは、どんな大喜利でも使えるユーティリティーな回答に該当する。

その答えが受けようが、評価すべきは・尊ぶべきは「そのお題でしか導けなかった大喜利の答え」だろう。

ラグタイムを見つけたのはジョプリンである

ベートーヴェンのピアノソナタ32番には有名な箇所がある。こちらの動画を見て貰えばわかる。

ラグタイムを先取りしたものだが、あくまでもピアノソナタの一部分で、コンセプトの提示としては不十分だった。「ラグタイムを先取りした」と言えるかどうかも怪しい。

ただし、ジェズアルドはしっかりいくつもの作品で半音階進行のマドリガーレを発表した。ベートーヴェンはそうではない。 

ジェズアルドはちゃんと完成形を提出している。もちろん、ベートーヴェンの方もピアノソナタ32番として完成していたが、ラグタイム・ブギウギとしてではなかった。

偉大な芸術家とは

音楽史的に重要な作品と、作品としての完成度は違うと誰かが言っていた。記憶違いでなければバレンボイム。

音楽史、絵画史とは、はっきり言ってしまえば科学史である。ただし、自然物理現象に対する実験・技術の発見・発明ではなく、人間という鑑賞者への心理現象だが。

文学史となると、科学史ではなくて歴史に近くなる。私が知らないだけで文芸作品における技巧・技術にフォーカスした「文学史」があるのかも知れないが。

夏目漱石の作品は、彼の英文学の素養なしに成り立たなかったことは皆が同意してくれるだろう。夏目漱石を近代文学の祖としてラディカルに考えてしまうと、漱石の元ネタ先である英文学が抹消されてしまう。

これはあまりに音楽史的発想だろうか?

思うに、文学理論から小説を発想するくらいなら、「見て学べ」ならぬ「読んで学べ」の指導方法の方がより効果的なのが影響している。文学理論をしこたま勉強して、そこから小説を発想するのは非常に難しい。また、実験小説を尊ぶ権威が日本にはない。

また、例えば物語のプロットを抜き出して、そのプロットをもとに物語を書いてしまうと、その物語が知られていないものでない限りは、パクリと見なされる、良い作品とは見なされない事情も絡んでいるだろう。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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