大阪の中心でヒュームと叫ぶ

デビッド・ヒュームは「懐疑論者」として哲学史上で扱われているが、「人間本性論」を読んでいる限り、どうヒュームが懐疑論者なのか腑に落ちない。

おそらく、私の”懐疑論者”の概念は通俗的すぎるのだろう。「何もかも信じない人」が、懐疑論者と呼ばれるわけではないことを私は知っているが、ではどういった態度・プリンシプルを持っていれば懐疑論者と言われるのか、私は知らない。

こちらのページによれば、ヒュームはそれまで信じられていたことに異義を唱えたため、哲学史上で懐疑論者と呼ばれるようになったとある。自然界における”因果関係”を疑い、ロックの経験主義的観念論を疑い……。

懐疑主義(Skepticism)は、それまで支えられていた思考の前提に、「待った」をかける。元々「真理」があって、その影を見ることが「理解」するって本当にそうなのか?何かを思い出すたびに、観念上でその当時の情景が全て再現されているとは本当にそうなのか。

いわば、前提となる概念にさかのぼり、メタ(上位)の問いを発する。これが哲学における懐疑主義的態度なんだろう。

私を擁護する

ヒュームの人間本性論は、1739年に出版された書物である。なので、今の我々から見ると、そもそも彼が何を問題としているのか分かりにくい。

話がズレるが、エドワード・サイードは「大きな物語」「小さな物語」という区別自体が、ヨーロッパ中心主義的だと浅田彰との対談で批判していた。中東でつつましく暮らすイスラム教徒にとって、第一次世界大戦やらソ連の勃興と崩壊など、なんの意味もないという主張である。

中島義道は、いささかコミカルに哲学界の「欧米支配」「英・独・仏言語支配」を批判している。 日本人が日本語で哲学を国際的に発表できないのは不平等ではないかという、まっとうすぎる批判を展開している。

「ドイツ人でなければドイツ哲学は分からない」「ドイツ人でなければドイツ哲学は分からない」と宣言するのは悲しいだろう。

「外国人・異民族にはよく見える風景」というのはある。おいしい→おいしそう、すごい→すごそう、まではプラスの意味なのに、かわいい→かわいそう とマイナスの意味になるのは変ではないかと喝破した日本留学生の叫びを今も覚えている。

話を戻すが、ここで、ヒュームが先行研究=否定的媒介として用いた書物(ロックの人間悟性論など)を読まずに、ヒュームを読もうとする私の試みを、容赦していただきたいと思う。

言い訳だと思われるかも知れないが、私はその言い訳を擁護する。

私が間違いを犯しているのなら、私を「間違い」としてピックアップすればいいのだ。

(これは、大阪で一人虚しく難しい本を読む男の叫びである)

ヒュームに戻り

千葉雅也の「動きすぎてはいけない」を読んだ後にヒュームを読むと、切り口が違いすぎて知恵熱が出そうになる。

千葉は、現代フランス思想のパラダイムにのっとり、記号・意味とオブジェクトの繋がりの恣意性を唱える(「サカナ」が、あの魚を示す根拠はどこにもない。サカナは男の別名であり得た)。

対してヒュームは、知覚:Perceptionが認識できるものを印象:Impressionと観念:Ideaに分け、さらに観念を Simple Idea と Complex Ideaに分ける。それに、まだ確認できていないが、ヒュームは「人格」「自我」という特別な総体――ホーリズム的な総体ーーを認めず、畢竟するに自我とは「1+1+1+…X」と述べているように思える。現在の脳科学からも、記号論からもかなり外れたことをヒュームは主張している。”システム化”を認めない立場というか、音符上の♪ソドレミシドを ソ と ド と レ と…の足し算にすぎないと言っているかのような。

ただし、「ヒュームは読む価値がない」と思うのは寂しいので、無理やり「分かる」作業をしている。

例えば、「意味のつながりの恣意性」と言ったって、限界はあるのではないか?あるいは、限界を恣意的に設定できるのではないか?と。

赤色は、古今東西「血」を表象する記号として機能している。これは、偶然ではないだろう。

ヒュームは、生まれつきの盲人:Born Blindの者が、光と闇を観念として理解することはないだろうと言っていたが、それもそうだろう。一つしか例を提出できないが、証人が一人いる。

(この「証人」の方は、「オレンジってオレンジ色をしているの?」という疑問を提出しているが、非盲人には浮かばない疑問だろう)

想像力の限界

有形のものを想像するからといいて、頭(脳)の中にその極小ミクロサイズの物質が発生するわけではない。

…我々は、「完全に透明な物質」を、物質として想像できるだろうか?概念としては可能だろうが、頭の中に思い浮かべられるだろうか。

一つのヒントになるかも知れないが、ヒュームは勢い:forceと生気:livelinesによって観念と知覚を説明しようとした。この箇所を、「観念」は本質的に動的なものであるとの主張と読み込める。

つまり、「観察者のいない宇宙に、観念は存在するのか?」という命題を導き出せる。私は詳しくないが、この命題は現代哲学でホットなトピックである。

ヒューム的には、当然「否」が命題に対する答えとなる。

参考文献:ヒュームにおける

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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