「『強い』言論の自由」と「『弱い』言論の自由」

OpenClipart-VectorsによるPixabayからの画像

ヘイトスピーチ解消法が2016年に施行されたが、あくまでも法的拘束力はない(理念法)。ただし、ヘイトスピーチ規制の条例・法律はなくとも、迷惑防止条例や名誉毀損罪などはあるので、そちらの法律・条例で、ケースごとに対応されている。

イギリスなどでは、飼い犬にナチス式敬礼を教えた人物が逮捕されたという事件が発生したが、そもそも「表現の自由」「言論の自由」とは、原理主義的に適応されていない。厳格に、イスラム法に則った自治を目指す運動はあるが、「表現の自由」を原理的に適応拡大していこうという運動はあるんだろうか?私の知っている限りではないが、もしかすると「無政府主義者」などは、その運動に実質的に加担しているのかも知れない。

かつて日本には「尊属殺人罪」があったが、憲法違反だとして廃止された。自衛隊もどうみたって憲法違反だが、元は「警察」として始まったややこしい歴史があるらしい。そもそも、違憲判決が下されようと、その判決が絶対的な効力をもつわけではないらしい

ヘイトスピーチを規制してしまうと、尊属殺人の廃止の根拠である「法の元の平等」に反してしまう。しかし、法と憲法のダブルスタンダードの原理的な解消は、無政府状態か専制君主の統治下でしか成立しない。

人を傷つける権利について

有名なハゲワシと少女の写真や、中国の民主化運動の旗手でもある現代美術家アイ・ウェイェイの救命衣をコンツェルトハウスに大量に貼り付けた作品

これらの作品により、怒ったり、傷ついたり、「プロパガンダだ」「印象操作だ」を叫ぶ人たちの気持ちを、どれくらい尊重すべきなのだろうか?

ゾーン規制・ゾーニングに関して、ツイッターで喧々諤々の議論が交わされているが、ポルノが存在すること・ポルノの存在そのものに対し、脅威(驚異ではなく。おびやかし)を感じる人は少なくない。

「今この目の前にいる男の人も、そういったものを見ている。昔は、『私は未熟なんだ』『普通のことなんだ』と思って納得しようとしたけど、耐えられない』云々。

アメリカで、宗教右派とフェミニストが協力して、ポルノを禁止しようとしていると聞いたことがあるが、おそらくは「協力する」というより「同調する」といった感じだろう。フェミニズムは男女同権を求めて始まった運動だが、現代では闘争領域を拡大しており、「フェミニズム」をキレイに定義する言葉を持ち出したとしても、機能しない。混乱を招くだけだ。

(ジェンダースタディという曖昧な言葉が、しっくりとくる)

35歳以下の40%のアメリカ人が、「言論の自由は危険だ」と感じているという調査結果があるらしいが、正直、気持ちは分かる。特定のグループに対して、下劣な言動を繰り返す連中、暴力的なアクションも辞さない連中はいる。

少し話はズレるが「まともなフィリピン人などいない」はダメだが、「まともなフィリピン人に会ったことはない」なら言っても良いという意見を、ネット上の議論で見かけたことがある(ここの「フィリピン人」は、あくまでも例だ。ここの「フィリピン人」を、「日本人」あるいは「白人」「西洋人」にすべきなのか?)

ここから原則を展開し、「統計・事実・歴史と整合しない、なおかつ侮辱的な言説は、法律で罰するべき」までジャンプするのは、難しくないし、ヨーロッパなどでは実際に発生している。

“フェイクニュース”には、ひどいものもある。サンディフック小学校銃乱射事件を、”捏造だ”という陰謀論者は、醜いにもほどがある。

「人間は月面に行っていない」ならまだ笑える範囲だが、前述のサンディフックのケースだとか、YouTubeで見かけたこのオッサンだとか…

怒りではなく、別の感情が内面に浮かび上がってくる。なんの感情なのかは分からない。

ディープフェイクの技術が極まった地点の未来において、陰謀論者の勢力はどうなっているのだろう?増しているのだろうか、それとも大人しくなっているのだろうか。

人を傷つける権利はあると言いたい

医師免許制度・運転免許制度をなくして、全てをマーケットに委ねようと言いたくはないが、自分は、能う限りの表現・言論・報道の自由を提唱したい。

(「能う限り」がどれほどなのかは、生涯をかけて語るつもりだ)

思想・良心の自由に限って言えば、ほぼ原理主義的に「表現の自由」を提唱する。また、政治・法律に関する提唱に、政府の検閲があってはならない。それが「女性(男性)の投票権の剥奪」だとかの、愚かしいものだったとしても。

民主主義とは、結局多数決なだから、頭のおかしい連中がわめく権利ぐらい与えてやろう。それに、バックグラウンドが違おうとも、外国人は外国人の気持ちに気付けるように、同調できるように、あなたが陥った悲劇的体験は、誰か他の苦しんでいる人を見つけるコードになる。間違って生まれた存在はない。

どうしてもガマンならない集団がいるとしたら、強行的手段をとるしかない。暴力的なカウンタープロテストに対して、私は同情的である。

「非常事態宣言」あるいは「超法規的措置」または「自衛権」として、”力”を行使しなくてはならない瞬間も、世界のどこかにあるだろう。

「全ては許されている」とも「存在は常に正しい」「道徳は弱者のたわごと」とも言わないが、理不尽・不条理なシチュエーションは、いくら言論を規制しようが発生する。政府に守ってもらうよりは、人の良心に託した方がいいと思っている。

小さな政府vs大きな政府 式に

小さな政府と、大きな政府という二分法がある。もちろん、統治形態がそんなスパッと2つに分類できるわけではないが、この考え方を、言論の自由に転用できないかと思っている。

  • 強い言論の自由
  • 弱い言論の自由

(大小ではなく、強弱のほうがより自然に感じる)

「社会的弱者に対するヘイトスピーチは、規制されるべきである」かどうか。例えば「性犯罪の非犯罪化」を政治的な手順にのっとり主張しているものの言論を、許すかどうか。いわゆる「誹謗中傷」に罰則を設けるべきか。報道の自由とプライバシー権の天秤を、どちらに傾けるか…云々。

ちなみに、私が長年視聴しているYoutuber カール・ベンジャミンは、「Free Speech Extremist」と、イギリスのタブロイド紙「mirror」で呼称されていた。日本語なら、「『言論の自由』過激派」だとか、「極「言論の自由」者」などになるだろうか。元々の「Free Speech Extremist」も、かなり奇妙で耳慣れない表現であり(ほぼ造語)、私の語学力では上手に日本語化できない。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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