「大きな物語」と「小さな物語」の相補関係

ポリコレ(PC:ポリティカル・コレクトネス)と、フェミニズムが関連概念として語られるようになって久しい。

フェミニズムは元々、女性の参政権を求める運動から始まっている。

だから、それ以降の「女性の社会進出」「”女性らしさ”からの開放」「ポリコレの徹底」を求めるフェミニズムを、「それはフェミニズムではない」と切り捨てることも無理ではないが、今「フェミニスト」を自称する人たち、あるいは「フェミニスト」と他称される人たちと、いわゆる「ポリコレ」は密接に関わっている。

メディアと表現規制

自称・他称フェミニストたちが、「メディアにおける女性表現」「性表現」に講義するようになって、久しい。起源は、ラディカル・フェミニズムに辿れるが、ポルノ表現はそもそも日本で認められたことなど一度もない。モザイクがそれを証明している。

また、キリスト教の信者たちも、ポルノ規制に一役買っている。特に欧米では。「ポルノを堂々と見るクリスチャン」なるものを、自分は想像できない。

「フェミニズムは”男女の平等”を目指して始まった運動なのに、ポルノ規制を主導する人らが、フェミニストを名乗るのはおかしい」という意見に、一理はある。だが、フェミニズムが何なのか定義づける権威はどこにもない。

明らかなのは、フェミニズムの御旗に「男女平等社会」が刻まれていることである。女性蔑視的表現になってしまうが、大義名分と言い換えても良い。

では、「男女平等社会の実現」または「女性差別の完全排除」を御旗に主張視される言説はいかようなものかと推測すると、「ポルノ表現・性的表現は、女性の人権を脅かしている」「女性の生活を、不当に脅かしている」となる。

これらの言説に対し、本当はあなたがムカついているだけだとか、他人を口実に己の主張を展開しているだけだと批判もできるが、実効性はないだろう。単純に響かない。

勝共思想の復活

浅田彰の対談集「歴史の終わりを越えて」に、エドワード・サイードとの対談が収められている。そこでサイードは、「ソ連の崩壊により、大きな物語は終焉したなどという言説は、ヨーロッパ中心主義である」と批判していた。

社会における「神の死」にしたって、中東ではそんなことは起こってないし、日本ではヨーロッパでかつて社会全体に影響を及ぼしていたような「神」は存在したことがなかった。

(中島義道も、だいたいそんなことを言っている)

「神」が死ぬと、神への冒涜も意味もなさなくなり、代わりに人間への冒涜が”冒涜”になる……。

ソ連が崩壊した後、勝共思想は役割を終えたように思える。しかし、フェミニズム、ポリティカル・コレクトネス,表現規制、多文化主義を「文化共産主義」と見なせば、「大きな物語」は復活する。

リベラルと保守

「リベラル」と呼ばれる一枚岩の集団も、逆もない。しかし、あたかも「リベラル達が…」あるいは「保守達が…」と、同じ思想をもった同質の人であるかのように語る言説にしばしば出くわす。

ここに「大きな物語」の徴候を見て取れる。

もしも「フェミニズム・多文化主義・ポリティカルコレクトネス」を、共産主義・マルクス思想に端を発するものとして扱えば、かつて世界を覆っていた危惧「共産主義が、世界を統一するかも知れない」が復活する。

あるいは逆に、「旧態依然とした連中が、歴史の進歩を受け入れない」と認識すれば、反転した「大きな物語」が出現する。

「大きな物語」の概念自体に、批判は多い。だが、「巨大な敵」という概念は、人類史上死に絶えたことがない。不死である。

リオタールと大きな物語

リオタールにとって、「大きな物語」とは「普遍的な理念」とほぼ同義である。 個人から共同体へ、共同体から民族、民族から人類…。

また、リオタールにとって「モダン」と「ポストモダン」は、相補的関係にある。暴力的に単純化すれば、覇権を握った主流派が「モダン」で、それ抗おうとする流派が「ポストモダン」である。

つまり、ポストモダン=小さな物語も、モダン=大きな物語も終わることがない。

大きな物語の世界軸では、あらゆる言説が最終的には合意に至る。…ほとんど最後の審判である。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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