(クラシック音楽における)解釈者と演奏者の分離可能性

クラシック音楽の演奏家は、ある種のアスリートだと思われている。ラディカルに考えれば、人間が活動する以上アスリート的でない仕事など存在しないのだが、いわゆる「アスリート」「肉体労働」に含まれるニュアンス及び非アスリート・肉体労働として切り捨てられる基準が存在する。

男女でそれほど差はないし、なおかつ50歳や60歳でも第一線で活躍できるのだから(70になると流石に厳しいが)、クラシック音楽の演奏家のアスリート具合は野球選手やサッカー選手などの典型的”アスリート”と比べてそれほどではない。

クラシック音楽には「解釈」なる作業が組み込まれており、曲をどう演奏するかは演者に委ねられている。ここがクラシック演奏家が「芸術家」たる所以だろう。

だが、解釈と演奏は分離不可能な、結合した作業なのだろうかという問いが、本記事の主題である。

中国語の部屋と解釈と演奏

オペラ歌手・声楽家は複数言語を操ることがデフォルトである。当然、外国語の読みや発音を勉強する必要が出てくるのだが、彼らはその言語でペラペラに話せるレベルまで勉強はしなくとも、歌っている歌詞の内容は理解しようとする。

なぜなら、「この歌はどういった歌なのか」なる情報は、歌い方=解釈に関わってくるからだ。恋人の死を想う歌なのに、やたらと楽しげに装飾音をつけて歌ってしまうような悲劇(喜劇でもある)を避けられる。また、理解して歌っていると感情やニュアンスも込めやすい。

しかし、その言語の意味・文法をなにも知らずとも人はその国の歌は歌える。発音は無茶苦茶だろうが、日本人の少なからぬ割合がモルドバ語の歌であるマイアヒを歌える。

しかし、モルドバ語にくわしい人物が、見込みのありそうな人をピックアップし発音の矯正を始めたとする。

モルドバ語で「おはよう」や数の数え方すらしらない日本人が、完璧な発音でマイアヒを歌い上げるシチュエーションは想像可能である。

このシミュレーションは、「中国語の部屋」の思考実験と重なっている。気になる人は、リンクを辿ってほしい。

先述の作業(モルドバ語を知らぬ若者に、発音だけ教える)を、クラシック音楽における解釈と演奏のフェーズに当てはめることは物理的に可能だろうというのが私の意見である。

MIDIでピアノ演奏を完璧に再現できるようになったとして、ピアノを一つも弾けないプログラマーが演奏の解釈=調教をしたとする。この場合、称賛を受けるのはそのプログラマーだろう。

いわゆる「クラシック音楽」の魅力とは、「生楽器=アコースティック楽器で演奏されている」、非電気介在装置による音楽行為であるなるサウンド以前の条件を無視できないので、MIDIでいくら名演奏・名解釈を繰り広げようが、少なくとも保守的なクラシック音楽ファンは歯牙にも掛けないだろう。

(話はズレるが、松本人志に対して「わかった上でやっていると思ってたら、そうではないことが最近の言動で分かった」なる意見をTwitterで見かけたことを記事を書いている中で思い出した)

もちろん、芸術的感覚やセンスなどは表面的な指導だけでは身に付かないので、解釈者の解釈伝達は困難を極めるだろうが、不可能ではないと言い切れる。

ホロヴィッツ の精神的な深みと演奏と助言者の可能性

ホロヴィッツはシューマンのトロイメライを好んでリサイタルで弾いた。

もちろん技術的に上手い。曲芸的ではないが、強弱の付け方がアマチュアだと難しい。

たが、この選曲に対して私は自己演出を感じてしまう。「難曲だけを弾いて技術をひけらかすピアニストではない」と(定期的に、思い出させるように)アピールするために、ホロヴィッツはトロイメライを引き続けたのではないか?

YouTubeで見かけた素朴なコメント「ホロヴィッツはこの曲で、子ども時代を懐かしんでいるのだろう」「彼ほどのピアノの腕前の持ち主がトロイメライを弾いている。芸術的価値というのは、難しさや華やかさと関係ないとホロヴィッツ は分かっていた」ピュアで、美しい意見。

しかし、仮にホロヴィッツが自己演出のためにトロイメライを定期的に弾こうと自分で思い付けたのなら、まだ彼は「自己演出の方法」なるコンセプトを保持した証になる。自分が他人からどう見られているか、どう見られるべきか考えられる人物であることを示せる。

最悪なのは、トロイメライのアイデアが周辺の人物やレコード会社の人物が進言をしていたケースだ。自己演出など思いもしないただ指が回る人にホロヴィッツ がなってしまう。 

(なお、実際のホロヴィッツは編曲能力が高かったので、音楽的なセンスや知能が皆無だったワケがない。ただし、”編曲が他の人物によってなされていない”なる仮の前提付きで)

追記:完全に人のように動けるロボットが開発され、そのロボットにプログラムで「解釈」したアプローチをさせてピアノを弾かせたとする。思考実験だが、このときロボットを芸術家として讃える人はおかしい。また、プログラムを記述しただけの人も、功労者ではあるが芸術家としてではない。

ここで評価されるべきなのは、どう演奏するか考えた人である。この思考実験は、現実のピアニスト にも当てはまる。

(また、最初にそのものまねを見つけた人が偉いように、最初にその解釈をした人が偉いのだ。世間的には評価の高い演奏をコピーしようとするだけの人は、どうでない人と区別されるべきである)

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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