予想を裏切っても笑いになるとは限らない

どんなに面白い話でも、何回聞いても笑えるということはない。確実に、笑えなくなってくる。

同じ小説・同じ詩集を何回も読む人は想像できるが、同じお笑いDVDを何回も見る人はいるだろうか? いるだろう。だが、最初に見たときと同じ強度で笑ってはいけないはずだ。

…私は暗に「コメディ作品は、笑うために見るものだ」と言っているに等しい。そうではなく、テキストとしてコメディは残りうる。しかし、それでも思うのは、笑いたいという目的があるならば、同時代の人間のコンテンツが最も適しているだろうということだ。

桂枝雀は、笑いを「緊張の緩和」によって発生するものと言った。だとすると、未知のものが既知に変わるプロセスと、「緊張の緩和」はリンクしていることになる。

「未知」「既知」なる二分法に問題があるのは分かっている。だが、今回は知的な枠組み=パラダイムの範囲内におさまる「未知」と、範囲外に位置する「未知」を、同一のものとして扱ってみる。

発話行為者から、特定のエピソードが話されるシーンを想像してみる。話の冒頭は「そういえばこの前たいへんな目に遭ったんだけど…」である。この時点では、まだ笑い話をするのかどうかは分かっていない。

ここで見いだせる情報は、「今、目の前のこの人が話そうとしている話は、遠くない過去に起こった出来事であり、それは”たいへん”だった」以上のものはない。だが、これはあくまでも仮想的に導かれる理想空間での判断である。実際には、もっと範囲は狭まるだろう。

山登りときのこ

山登りをしているときに、今まで見たこともないようなキノコを見つけた。ワケあって、それを口にしなければならないことになった。大半の人間は、恐怖を覚えるだろう。

食べてみるとおいしかった…としても、「後から毒が回るんじゃないか?」と恐怖を怯えることは想像できる。

数日経てやっと、「大丈夫だったのかな?」である。

“安全な食”(食の安全でなく)は、先人の屍と、近代科学の調査の上で成り立っている。よくわからないキノコを食った男が死に、フグの肝を食った男が死に、塩を大量にかじったものが死に。

話を戻すが、「<この前>たいへんな目にあった話」を出来るのは、「生きている人間」だけである。また、それが「重大な交通事故に遭った話」でないことも話す前から分かる。病院で話しているのでなければ。

また、「分かる」の意味が少し違うが、その話が「対巨人戦のピッチング」の話でないことも分かっている。急にそこらへんの一般人が、実体験としてプロ野球選手であることを前提に話しだしたら、何かが違っている。

コンビニの店長だと思ってた幼馴染がプロ野球選手だったら、コントだったら笑えるかもしれないが、実生活で起こったら巻き込まれた当人は笑うどころではない。

コントという舞台設定は、つくづく不思議な空間だと思う。

ジャルジャルの幼馴染

ジャルジャルの有名なコントだが、これが仮に実際に起こったとして、笑い話になるだろうか? むしろ、世にも奇妙な物語に分類される気がする。

このコントで発生している勘違いが、なぜ笑いになるのか。だが、コントをよく見てみると分かるが、勘違いそのものが笑えるわけではない。

アメリカの首都をニューヨークだと思っている人を、私はかつてバカだと思っていたが、アメリカの首都ワシントンDCのDCが何なのかも知らないし、州の権限も知らないし、大統領の権限、日本の「比例代表制」が何なのかも分かっていない。

「アメリカの首都を、ニューヨークだと思っている人」と俺にそれほど差はないと思い出したとき、笑いが消失した。バカにできるほど、俺はものを知っていない。

「高校3年生のときに、お前急にグレだしたよな」と、福徳演じる幼馴染Aは勘違いしているが、そうではなく、幼馴染Bは大学に進学しただけであった。名前も仲が良すぎて、勘違いしていた。

桂枝雀の分類「知的な笑い」「情的な笑い」「エロがかったこと・タブー」「生理的な笑い」を分類すると難しいが、「知的な笑い」を「ルール・形式に基づくもの」と言い換えられるのは分かっている。

倫理的根拠がないルールである。ここで「情的な笑い」「エロがかったこと・タブー」に移行すると、ルールに「人権意識」だとか「共同体の維持」「隣人愛」などが典拠・根拠として根ざしてくる。

この「根拠」は、内面化されている。抑圧ではあるが、「赤信号=止まれ」にしたってそれは抑圧である。意味とは、本来的に無秩序を秩序化したものと言える。

「予想の裏切りが笑いである」なるステートメントは、状況的には正しい。お笑い芸人がそういうとき、彼らの念頭にあるのは「コメディ」である。鑑賞者は、彼らがコメディックに振る舞うことを予想しており、その予想を裏切らなければ笑いにつながらない。

みんなが予想したことを言っても、笑いにならない。だが、これはパターン予測によるものである。

コントいうのは、実際の登場人物と、製作者の思想はイコールとして見られないことになっている。

また、小説も、語り手と作者は一致しないことになっている。慣習的なお決まりでしかないが。

(「私小説」だって、日記と言えば日記だ)

フィクションなら笑える表現も、ノンフィクションなら笑えないということがある。「知的な笑い」に、「フィクション」のメタメッセージは大きく比重を寄らせる。

大喜利の予想の裏切り方

大喜利の問いと答えには、いくつかほとんど問いと連結しているかのような「答え」がある。それは書いても笑いにならない。

…もしかしたら、角川春樹だとかホリケンなど世間から「狂人」と目されている人が答えると、その大喜利の問い(お題)と連結・連合している答えであっても笑いになるかも知れない。

その場合は、「作者」によって大喜利の連合が変化していると見なすべきだろう。

よく言われているように、大喜利の正解は各人異なっている。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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