硬性聖典・軟性聖典という操作概念の提唱

憲法における硬性・軟性という操作概念は、宗教にも応用できる。

セクト・カルトと認定される宗派があろうと、その宗派が、あるいは教祖があくまでも「私の解釈である」と主張していれば、その宗派はドラスティックに教条を変えることができる。

問題は、聖典である。テクストが不可侵であればあるほど、そう考えられているほど、軌道修正・穏健化が難しい。なぜならばそれは聖典だからである。

例えば、教祖が「私は神(或いは、阿弥陀・イエスキリスト」の声を聞いたと語った場合、そのテクストの否定はつまり「それは神の声ではなかった」ことになる。

該当テクストが神の声を反映したものであると信じて生きてきたのに、そうではないのならそれまでの生き方を全否定することになる。

「(教祖)は素晴らしい教えをたくさんのこしたが、ここは間違えている」「このテクストは方便あるいは時勢に合わせて発されているだけで、恒久不変のものではない」

そう捉えられる・捉えうるテクストは、「軟性聖典」と呼称できるだろう。憲法のように改正に国民投票の何分の一以上必要なのかとか、そもそも議会だけで改正できるのかなど客観的には記述できないが、どの聖典も同じ強度であるわけはない。イスラム教はハディースは軽視あるいは無視すらできるが、コーランはそうできない。

(聖典・聖句の不可侵度)

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@kingofgatayama
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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