排中律と同一律と形式

排中律(真か偽か決定できる命題)には、「現実」という解釈を拒むものがある。

例えば、「色は赤いかそれ以外である」という命題を見てみよう。数字に色はあるのか? ないだろう。

このように、排中律とは適用範囲を狭めなければ、あるいは「現実」を対象にしなければ、効力を発揮しない。

入不二基義の「あるようにあり、なるようになる」を読んでいる。論圧の強いパッセージが延々と続いている。専門家でもなければ、新書を読むようにしては読めないだろう。

未来に起こりうることが、現在に全て含まれているのなら、未来予測の排中律「出来事Aは、起こるか起こらないかである」がナンセンスなものとなる。

(追記:ジジェクの語るヘーゲルの弁証法は、そういったパラドキシカルなものとして現れる。絶対知に弁証法を経て到達できるのなら、「絶対知」はそもそも内部になければならない)

未来には、起こりうる出来事しか起こらないし、「現実」もそうである。悲しくも、我々は感覚と自我を通してしか現実を見られないが…。

「未来は変更できる」なるステートメントが奇妙なのは、変更とは既にあるもののにしか行えないからだ。

同一律

排中律と同じく論理学の基盤である同一律。命題<AはAである>。

こちらの論文では、差異性と対立なる概念が持ち出されている。ここでいう「対立」はヘーゲルの語法を踏襲しており、「プラスとマイナス」だとか、「ペンと剣」など、概念として対になる・対になりうるものを指している。

また、比較しうるものも「対立」している…。単語を並列しておかしくないものと、おかしいものの2つがある。繰り返しになるが、真とも偽とも言えない命題はある。また、未確定のもの・未来という存在しないものに対し、排中律は適応できない。

規約主義

排中律「人は、独身者かそうでないかである」に対して、「小さな子どもは独身者なのか?」「別居状態の人は独身者なのか?」という疑問が出てくるだろう。

そのとき、「独身者」の意味をどうとらえるかどうかで、命題(独身者…)の真か偽か決まると主張する立場が、規約主義である。

自明

自明とは、英語でSelf Evident と言う。「自らで明らか」なる意味だ。そして、認識論的に自明なのか、形而上学的に自明なのかなど、細分化できるとの主張がある。

カントは、さらにこれを「分析判断」「総合判断」と腑分けしたらしいが、私はよく分かっていない。

全一性

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず 

「方丈記」 鴨長明

ソナタ形式の音楽は、主旋律A、展開部、再現部などと形式に還元できる。抽象化できると言い換えても良い。

ここで、「同じ形式のものは、同一のものとして扱える」とすると、音楽における形式主義者になる。メロディが異なっていようと、楽器が異なっていようと、形式が同じなら同じであるとの主張だ。

その立場の形式主義者には一理あると思う。

同一性に関してだが、同じ版元、同じ文章、同じ装丁…”全て”が同一の小説は、ほかの”同一”の小説と同じかどうか疑問に思っている。

「現実」において、2つの印刷された小説には無限の隔たりがある。だが、我々はその2つを同じものとして扱っている。

「なぜ同じなのか」考えても仕方ないと言うのが、分析判断である。これに対立するものとして、「カラスは黒い」など、経験を経なければ判明できない命題を「総合判断」とカントは規定している。

形式…正確には「スタイル」のややこしさだが、例えば上手な小説と下手な小説を分けるのは、事後的にしか成されえないのに、事前にそれが決まっているところだ。

スポーツの敗北と失格

比喩的に語ることを許していただけるのなら、スポーツでルールに則った上で敗北するのと、失格によって敗北することは様相が違う。この「ルールを遵法した上での敗北」と、「ルールを破った上での敗北」=失格は、芸術の美学的判断にも応用できないのかと考えている。

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桜田真助
  • 桜田真助
  • Twitterアカウント:@yamakawa6500
    92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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