自己研鑽=自己否定?

なにも学ぶ必要がないと感じている人は、学ばない。全てを知っている人は、新たにものを知る必要がない。

内田樹は、数多くの自著で「学びの極意」のようなものを繰り返し述べている。ディティールは忘れてしまったので述べられないが、「ほんとうの学びというのは、『師』は自分よりも遥かに深くものごとを理解している」という状態でしか発生しないといったものだった。

(細かく確認したい方は、「レヴィナスと愛の現象学」を読んでください)

例えば、ある言説Aの価値を「取るに足らない」ものだと認識したとして、人はそこから新たに「学ぶ」ことはない。

「この『~~』には、叡智、わたし単独では知りえないようなものが潜んでいる」

かなり荒い要約だが、内田樹から私が学んだのはそういった”態度”だ。

不安との付き合い方

ホセ・オルテガというスペインの哲学者がいる。彼は有名な「大衆の反逆」の著者だ。まだ読んでいる途中だが、かなり面白い。

周りと同じであること・平均的であること・”常識人”であることを誇っている。そして、”自分”を疑わない。

これがオルテガの示した「大衆」の定義だ。反対の位置に「貴族」をオルテガは置いたが、これは実際の封建的制度の中にいた貴族ではなく、自己現状の超克を意識し続け、問題意識を持ち続け、努力する人間のことだ。

「本を読むときに、その本から何かを学ぼうとするのではなく、著者が以下に『自分と違うか』を弾劾するために読む」

2019年現在の日本だと、はあちゅう・キングコング西野が直面している問題と似ている。いわゆる「ヲチ」と相似したコンセプトを、オルテガは予見しているというか、抽象して取り出している。

(「クソゲーマニア」だとか「クソ映画マニア」だとかも、似たようなメンタリティをもっているだろうと私は推測している)

しかし、「“大衆”=馬鹿」ではない

自己超克を目指していなかったり、自分のなかに確固たる信念があり、それを疑わない。そういった人間が”馬鹿”かというと、別にそうでもないのだ。

“頭がいい”というのを、”ロジックを上手に使える”くらいのゆるい縛りで考えているが、向上心がなかろうと、自分が「みんなと同じ」であることに安住してようと、ロジックを上手に組み立てられる人間はたくさんいる。

話はずれるが、芥川賞の選考評を読んでいる限り、宮本輝は小説の形式が典型的なものからズレていたり、レトリックが非保守的でない作品の価値を認めない。でも、宮本輝の文章は美しいし、彼の小説は美的で好きだ。

「常にものごとのメタレベルから考えてしまう」バカはいる。陰謀論と陰謀論者を非難したいのではなく、世の中の陰謀論の大半は、ロジックがそもそも破綻している。彼らの「前提」はともかくとして、前提と理屈から導かれる結論がおかしいものばかりだ。

貴族であることはしんどい

貴族で有り続けることは、自分を「不安」にずっと身をさらけることだ。人間の快楽原則から離れているし、卑近な話になってしまうが、モテるのも根拠なく自信たっぷりに物事を語る人間である。

それに、信用される、人から「託される」のも、自信たっぷりに物事を語る人だ。

(オルテガが要求したのはあくまでも「精神性」であって、外面ではない。そこは忘れてはいけない)

幻冬舎の創設者である見城徹は「憂鬱でなければ、仕事じゃない」「編集者という病い」など、いくつか本を書いている。

ものごとが上手く行っているときは、「こんなにうまくいくはずがない」と疑い、誰よりも努力をし、政治家のようにあらゆる場所に気を回し、言葉に気を使い、人を愛し、金儲けに走らず…。

ホリエモン風の、いかにも起業家らしい仕事の流儀を語っていたことを覚えている。

彼が”大衆”でないのは確かだが、「貴族」かと言われるとあまりしっくりこない。こういった「やる気に満ちた起業家」に対して、理由はよくわからないが心理的な反発がある。

彼らが”貴族”なのかそうでないのか、そして私がいわゆる「やる気に満ちた起業家」に対してなぜ反発するのか、いつか検証したい。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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