成功者マインドと自己責任論

「頑張れば夢は叶う」「努力すれば、目標は達成できる」という信条を持っている男は、努力しない人間をどのように見るだろうか?
コンスタントに誹謗中傷を受けるはあちゅうさんが、アベマテレビで放送されていたキンコン西野との対談で語っていた持論「貧乏人より、お金持ちのほうが魅力的だ」という言葉をときどき思い出す。
はあちゅうさんは「お金を持っている人は魅力的だ」と言いたかったわけではなく、「お金持ちの人は、努力をする。”問題”を見つけたとき、なにもしないのが貧乏人で、お金持ちの人は『この問題にどう対処するか』を考える」と、財産ではなく人柄のフィールドでも、貧乏人は金持ちに魅力で負けているらしい。酷な意見である。
だが、問題を見つけたときに、嘆いて何もやらない人間より、それを解決しようとする態度を持つ者が魅力的であるという意見は分かる。
私自身、嘆いて何もやらない人間ではなく常にソリューションを探し続ける男でありたいと思っている。
しかし、人は平等に生まれない。平等に育たない。運(偶然)も、人生に大きく影響する。
「私が得たこの名誉・成功・財産は、私のものである」と考えることに、正当性はあるだろうか?
苦痛と恵みとギャンブラー
「過去にこれだけ苦しんだのだから、苦労したのだから、その分幸せが待っているはずだ」というのは、ギャンブラーの誤謬と比較できる。
サイコロでいくら特定の数が続こうが、1~6までの数が出る確率は⅙だ。
これまでの人生ずっと苦労したのだから、いつか環境=運勢が好転すると信じることに、正当性はあるだろうか?いや、ない。
(「どんな確率も、平均値に回帰する」と考える実用的な効果を、プラグマティックな功利主義的観点からの効用を、私は認める)
苦労と幸せを交換されるものとして認識してしまうと、一部の狂的生真面目な人々を除き、努力をしないか、ほとんどしない生き方を選択する。
「未来で楽をするために、今苦労する」生き方は、頑張らない生き方なのだ。小金持ちにはなれても、大金持ちにはなれないだろう。
誰もやりたがらない仕事と需要
仕事いうのは基本的に「必要だが、他人がやりたくないこと」をすることで報酬を貰える。
苦痛が強ければ強いほど(しんどければしんどいほど)、仕事の報酬は一般的に上がる。
しかし、これはあくまでも「やりたい人が少なく、需要が市場の平均を上回っている」からこそ高報酬なのであり、苦痛と報酬に因果関係を見出すことはできない。
野球選手に、無報酬でも良いからなりたいと思っている人は数限りなくいる。
メジャーリーガーが年俸25億だとかを稼げるのは、その人物がプラスの市場影響力を持つからだ。PPV、チケット、グッズ…等々。
成功と運
「他人の成功も、俺の成功も運だ」
「他人の成功も、俺の成功も努力だ」
「他人の成功は運だが、俺の成功は俺の努力だ」
「他人の成功は努力だが、俺の成功は運だ」。
成功者マインドなるものがあるとすれば、少なくとも「他人の成功は、努力によるもの」からスタートしている。
なぜなら、もしも成功と失敗が運によって決まるとラディカルに信じているのなら、努力をするはずもない。
疑問なのは、”他人の成功は努力によるものだが、私の成功は運が良かっただけである”とラディカルに信じている人間が、少なからず存在することである。
原理的に、自分で自分を見ることはできない。自分の像は、どこまで行っても鏡像である。
自分のイメージ・自我は、必ず他者を媒介している。俗流解釈過ぎるかも知れないが、他者というのは”私”を常に監視していると想定できる。
彼らに讒訴されないために、マインドセットを常に謙虚に保っているのだろうか?
“成功”から逆算する
自分探しの旅をバカにする人間も、大半は自分が自分の人生で何をしたいのか分かっていない。
“自分探しの旅をしている”と自覚的な人間の方が、自覚のない人間よりも遥かに好ましい。
自分探しの旅から解放される一つの方法は、成功を設定して、そこから逆算してアクションを決めることだ。
“自分の飲食店を開きたい”なら、なにをすべきなのか自ずと浮かんでくる。
何が成功をもたらすのかはブラックボックスの中にあるが、賞賛に値するものがあるとすれば、成功ではなく、”成功”に至ることになった方法論である。
外的・社会的な名誉は、賞賛に値しない。成功の逆算を施行する態度が尊いのは、才能・素質や環境に依らずに実行を促せるためだ。
目標の達成可能性
私が今この瞬間からいくら頑張っても、プロ野球選手にはなれないし、イチローのメジャーリーグシーズン安打記録も抜けないだろう。私は、野球の試合を一度もしたことがないし、キャッチボールも一度二度の経験しかない。バットも振ったことがない。
仮に、私が「今から頑張って、イチローのメジャーリーグシーズン安打記録を抜く」と決意したとして、その態度は賞賛に値するだろうか?
値しないと私は考える。その決意には、普遍性が欠けている。ありえないが、今から私が努力をして、逆算をして、イチローのメジャーリーグシーズン安打記録を抜こうと、そのメソッドは他人に薦められない。
なぜなら、そのメソッドを誰もが実践するようになることが想像できるからだ。そうなってしまえば、私はパイオニアの位置に下がり、特殊性が失われるだろう。
(追記:2019/09/13) 多くのメソッドは、独占すること・共有しないことによって、持たざるもの・知らざるものに対しアドバンテージを生み出す。しかし、知識の占有は共同体の倫理から見て、好ましいものではないだろう。

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