ユーモアと倫理の鏡像

ジジェクは、「イデオロギー」というワードを、かなり拡大的な意味をもたせて使用している。ジジェクにとって、イデオロギーとは「彼らはそれを知らない、しかしそれをやっている」であり、我々が「無意識」と呼ぶものと殆ど重なる概念だと私は踏んでいる。

日常語彙で「イデオロギー」に近いものと言えば、”価値観”だろう。しかし、価値観なるワードには、イデオロギーが包括している「倫理」「(無意識の)幻想」などの概念が抜け落ちている。

鏡写しの倫理

「人の命は大切だ。だから人を殺してはならない」の、逆の立場(鏡像)として、「人の命は大切ではない。だから、人を殺してもよい」を設定したとする。

この操作を世間一般人のイデオロギー(倫理+価値観+…)に当てはめていくと

「差別をしても良い。生まれで身分をつくっても良い」

「フグの肝を必ず食べるべきだ」

「法律は破らなければならない」

そして

「私は、なにをしてもよい」

抑圧と倫理と笑い

我々の無意識は、「~してはならない」という抑圧のコードでできている。抑圧≒制約と言い換えても良い。123が数字を意味することがわからなければ、赤信号が「止まれ」であることがわからなければ、人は理性的でいられなくなる。

桂枝雀は、笑いを知的・情的・生理的・タブーの4つに分類したが、これをひとまとめに「抑圧」と表せる。

(記号・象徴の読み取りは、無意識がルール・規則を守らなければ成立しない)

こちらの斎藤環氏の考察では、そもそも、人は物語を「フィクション」として受け止める傾向があることに触れられており、「言葉」も同じように「虚構的」だとしている。眉唾ものだが、言語とは象徴であり、コミュニケーションがアナロジカルにしか(類推的にしか)成立しないことを前提にすると、それほど突飛な話ではない。フィクション=ノンフィクションのメタ情報そのものが、かなり高度な概念操作なのは確かだ。

歴史=ノンフィクションとは、物語を読み解く特殊なコード・概念・コンセプトと言える。「過去に、このような出来事が、実際に我々が生きているこの世界で発生しました」とのメタ情報があるのが、歴史=ノンフィクションである。

もちろん、友人との他愛もないおしゃべりは、「実際にあったこと」を中心に構築されている。しかし、他愛もないおしゃべり中に登場する「エピソード」は、実際にあったかどうか追求されない。あるとすれば、「見たくないもの」を見たときだろう…。ノンフィクション性の追求は、人間が真理のようなもの到達したい欲望から発生するのではなく、欲望≒イデオロギーが危機に陥ったとき、「修正」として発生する。

笑いは、イデオロギーが揺らぐような事態では発生せず、どちらかいうとイデオロギーの再強化に貢献している。

ユーモアの成立

皮肉がそのまま受け止められてしまった経験が、皆さんにも一度はお有りだろうが、皮肉が皮肉であるかどうかは、究極的には、メタ的に(上位の審級から)判断するしかない。

ユーモラスだとか、ユーモアがある/ないと判断するとき、それはあくまでも人の性質や態度、性格に言及している。「ユーモアのセンスがある」などの評価は、その典型。

そして、「ユーモアがある人間」は、アイロニーを使える人間である。字義通りの解釈を要請しない言説を、「聞き手の笑い」という目的のために駆使できる。

(もちろん、ノンフィクション=歴史を、そのまま『コメディ』として聞き手に提出することはできる。矢沢永吉の型破りなエピソードなどはその典型)

…「倫理的態度」にヒビが入るような、道徳観が更新されるような主張は、笑いを発生させない。…また、道徳観に反する出来事も(「~してはいけない」という命令=抑圧に反する出来事)も、笑いは発生させない。

反同性愛

「お前はゲイか?」あるいは「ゲイみたいだ」「ゲイ」なる侮辱は、欧米では一般的である。日本でも同性愛者をバカにするエンターテイメントは存在するが、欧米ほど一般的ではないだろう。

(おそらくは、アメリカとスウェーデンとでは多いに違う)

心的外傷は、そのまま「抑圧」として機能する(もちろん「抑圧」にも程度がある)。これは、何かの殺傷などのトラウマによって、その生きた人間に道徳観が生まれるのではなく、子供に繰り返し道徳がとかれたり、社会生活そのものから、教師からなどによって植え付けられる。

「掟」は、「掟を良心とせよ」という抑圧をどうしても含んでしまう。山一良忠のような極端な例もあるが(山口を、「リバースサイコパス」と呼べるだろうか?)、我々はやましさを感じながら生きている。

知的・情的・タブーの笑いと、「バカ」「困った様子」「インモラル・アクト」を対応させられる(枝雀の「生理的な笑い」は、まだ自我が発生する前のことを言ってるので、省く)。

しかし、我々は他人が困ったときに笑えるわけでもないし、バカを見てもいらつくことがほとんどだし、道徳と掟を破る人間には怒りを覚えるのが普通の反応だろう。

人が笑うのは、「異状」が発生するかと疑ったあとに、そこに何も異状がないことを確認したときだ。言い換えると、「あるべきもの・こと」が保守されたことを、見つけられたとき。

「こんな困ったことがありまして…」と話をはじめて、ほんとうに困っている話(聞き手の主観内において)を展開されても、人は笑わない。そして、ほんとうに困っているのか困っていないのかは、上位の審級で、無意識内で、自動的に判断が下されている。

ステレオタイプ

ある種のコメディに対して、「ステレオタイプを演じている」という形の批判がある。男、女、おかま、黒人、アジア人などが、聞き手の先入観と合致した振る舞いをするコメディは、問題視すべきだろうか?

…ステレオタイプがあること、それが演じられること自体は問題ではない。”問題視”されるのは、それがある種の人々の心的外傷に触れてしまうためだ。フィクション内の彼らは、この世界に生きる我々にある種の「生き方」を提示する。

完全排除はむりでも、こういったものは、出来るだけ排除していかないと、差別につながる。

…イギリスは、「男女のステレオタイプ」に基づいたコマーシャルを禁止にすると発表したが、 代わりに何か別のものが生贄に捧げられるような気がしてならない。俗っぽい表現で言えば、「八つ当たり」を心配している。「先入観・ステレイタイプを原則的に保持しない」としても、人の生存確率は下がるだろう。崖は危ないし、男はやっぱり犯罪によりコミットしやすいからだ。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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