マイケル・ジャクソンの振る舞いが、不適切だったことは確実に確か

ハリウッド映画界のプロデューサーであるハーベイ・ワインスタインのセクハラ問題で”再発見”された、”Metoo”問題。元々はタラナ・バークという黒人女性が、性被害に合った黒人女性を支援するために、 2006年に始めた運動らしいが、前述の”アメリカ映画産業におけるセクハラ文化への糾弾”を皮切りに、職場における性的被害や女性差別などを告発する運動に移動と発展をしていった。

こちらのVICEのアーティクルでは、Metoo及び#MeToo(ソーシャルネットワークサービス上において、ハッシュタグMeTooで性差別・性的加害・セクシャル・ハラスメントを告発する運動)のアチーブメントに対して懐疑的だが、性差別に無自覚な男性社会に一石を投じたことは間違いないだろう。

『Leaving Neverland』とホロコースト否認

マイケル・ジャクソンの児童性的虐待疑惑を追求した映画が2019年の4月に公開されたが、この映画の制作は”MeToo”運動の流れを汲むものであり、思いやりと配慮のない言い方をすれば、利用したものである。

映画は、かつてマイケル・ジャクソンから「性的虐待を受けた」と語る二人の元少年の証言によって構成されている。

私は、そして”我々”の大半は、マイケルと個人的な付き合いがあったわけでもないし、彼の人柄に詳しいわけでもない。作品に親しんでいる人は多いだろうが、ポルノ作家でもない限り、作品から性指向を詮索するのは不毛だろう。

信用度、有罪と無罪の間

人は「モノ」を認識できても、「モノ」自体を認識できるわけではないという前提。また、たとえ法廷で物的証拠が固められ、被告人が自白したとしても、被告人が何も犯罪を犯していない世界は物理的に存在しるという前提。

「蝶番命題」あるいは「蝶番」という概念を、晩年のウィトゲンシュタインが提唱した。懐疑論者は目の前の風景や、自分の手の存在などの存在も疑わしいとするが、それでは何も論説を展開することができない。「自分は月に行ったことがない」あるいは「この色は日本語で赤である」など、強固な命題があるのではないかと主張した。

(正確には、晩年にウィトゲンシュタインが展開した「蝶番命題」を、モイヤル・シャーロックが展開した…らしい)

どんな命題も、まず前提というものがあり、そこから命題=説を展開できる。「パラダイムシフト」というワードは、主に自然科学の分野で使われる言葉だが、前提=出発点が変わることも、「パラダイムシフト」を比喩として重ねて使えるだろう。

大学時代の友達の一人が、「とてもかわいい他学科の女の子」と、関係を結んだと喧伝していたことを覚えている。ただし、その当の女の子は否定したし、そいつもよくウソを付く人間だった。

「ウソかも知れないし、ホントかも知れない」と、保留の状態である。

私の中で、マイケル・ジャクソンはそんな扱いになっている。それに、不適切な関係があったにしろなかったにしろ、マイケルと子どもの接し方は尋常ではなく、問題視すべき類のものだったのは確かなのだ。この動画中で、マイケルは「もし君が僕を愛しているなら、僕と一緒にベッドに寝てくれ」と言っていると自ら述べている。マイケル・ジャクソンは子どもの頃から芸能界で活躍しており、子供らしい子供じだいがなかったため、こんな行動をとるのだ…という釈明を、我々大人が聞き入れるべきだろうか?

本人が認めている・非常に疑わしい・保留・気にしない

マイケルは、最後まで児童の性的虐待を認めなかった。そして2009年に死んだ。

かつてのダンサー、メイド、妹などがこぞってマイケルは有罪だと言っている。

有罪と無罪の間というのは、安定しない。ドキュメンタリーを見れば見るほど、「多分有罪なんだろうな」という気がしてくる。

なにかの出来事に対し、「ある」「ない」と命題の真偽を保留しつづけることは、人間の心理に向いていないのだろう。それでも自分は、”有罪”なのか”無罪”なのか判断を保留し続けているが、もしも私がマイケルの作品とパフォーマンスのファンでなかったら、そんな曖昧な態度を保守し続けていない。和歌山のカレー事件の容疑者と、OJシンプソンに対して、そんな心理的なポジションをキープしてはないからだ。

桜田真助
  • 桜田真助
  • 92年大阪生まれ。なにもかも分かったような気に最近なっていて、これはダメだなと焦って疑問を探している。プロフィール画像は友人(@leilamarinacb)から頂きました。

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