「お金」は本当に信用を言い換えたものか

「物々交換の時代があって、それがいつか金本位制に変わり、いつしか金を担保とすることなく「信用」のみでお金はやりとりされるようになった。」
つまりお金とは「手形」であると説明されてきたのだが、分かった気がしない。
友達に「お金ってなんなん?」と聞かれた際に、「お金というのはね…」と説明できる自信がない。
GDPが何なのかもよく知らないし(実はGDPは大切じゃないということも聞いたがわからない)、中央銀行もよくわかっていない、なんでこんなにテクノロジーが発達したのに、まだあくせく働いているのかもわからない(デンマークなどだと、高い所得税の代わりに、残業もなく失業保険も充実しているとは聞いた)。
(このブログは正直に書くことをモットーとします)
子供の頃から、お金に対してなんの疑問も抱いていなかった気がする。「なんでこの紙がジュースと交換できるんだろう?」とも、「なんでそんな大人はお金を欲しがるんだろう?」とも思っていなかった。
そういうものだと思っていた。
「お金とはそういうものだ」と思わなくなったのは、実際に自分が働きだしてからだ。例えば、仮に一度ランチで1000円ちょっとの食事をしたりすると、「これが俺の1時間分と交換なのか…」と考えたりするようになった。
また、コメダ珈琲が好きでよく行くのだが、毎日のようにネットワークビジネスとアパート経営投資(投資というのもそう言えばよくわからない)の持ちかけ話を聞くことも、「お金ってなんなんだろう?」と考えさせられるキッカケになっている。
将来年金がもらえるかどうかも不安である。会社員であるため、給料から自動的に差し引かれているのだが、なんで消費税に組みこまれてないんだと不思議に思う。
投資を始めてみたいが、損はしたくないし、簡単に儲かる気もしない。なによりも、毎日株のことを考えたり、チャートとにらめっこする毎日を過ごしたくない。
「中央銀行」とぐぐって色々読んでみたが、未だに機能や役割を他人に説明できる気はしない。
お金とはなにか知りたいと時々思う
お金とはなにか知りたいと時々思う。他人に説明できるようになりたい。
そこで本気で本を読めないのが情けないのだが、「勝てるようになるまでの過程」(他人に「お金とはなにか」を説明できる状態に至るまでの過程)が不透明であり、どれくらいの労力と時間がかかるのか検討もつかない。
情けない話だが、かっこいいように言えば完璧主義者なだけであって、「自分が他人に見せられると思えるレベルに達するまでは、他人に見せない」性格のあらわれ。
今の自分の段階(レベルで)、後輩に堂々と「お金とは…」と講釈をたれられる(?)人もいるとは思う。反対はしないが、遭遇はしたくない。
「お金とはなにか」わかった気がしないのはなぜなのか
お金は信用であるとか、もともとは金と変えられるものだったとか、色々言われているが、お金とはなにかわかった気もしないし、説明できる気もしない。
原因はなんとなくわかる。
- 「株」も「株式投資」もわからない
- 「中央銀行の役割」がわからない
- 政府債務もわからない
- GDPがわからない
内容の繰り返しになってしまったが、上記4つがどうしてもひっかかる。
逆に言えば、上の4つがなにか分かれば、わかった気になる可能性があるということだ。それがたとえ自己満足であっても。
お金とは信用であるのか
キングコングの西野が、「貨幣とは信用である」と言い出し、それに加えて「信用だけでやり取りすれば、貨幣はいらない」云々の説を展開しだした。
ここで疑問が浮かぶのは、「貨幣への信用」と「債務者への信用」の区分である。西野は説明を省いて一緒くたに語るが、「貨幣の価値が未来も継続すること」と、「お金を貸した分・お金を払った分のサービス・材を受け取れること」は、区別しなくてはならない。
「貨幣は信用である」ことは、間違いない。ただ、このステートメントに欠けているのは「何に対する信用なのか」という言明だ。「貨幣の信用」を箇条書きで示すなら
- 価値安定性
- 価値継続性(法定通貨なら、政府への信用とニア・イコール)
この2つは、区別したほうがいいと思う。

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